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第12話 幼馴染の理由と事情
微睡んで、臣が明け方に目を開けると、静寂の中、紅葉の静かな寝息が聞こえてきた。
本当によく眠る奴だ、とまだ胡乱な夢の中で思い、首を巡らすと、果物たちの気配はなく、世界は青白く止まったように静かだった。
いつの間にか夢でも見たか、と思ったが、身体を動かそうとすると、関節のあちこちが軋みを上げた。ふわっと日向の匂いがする。散々愛された証に、紅葉がまだ中にいる名残りがあり、発情時の焦燥感はいくらか和らいで、落ち着いていた。それで、昨夜、起こったことは現実だったのだと、臣は自分の醜態を思い出し、赤面した。
それから、自分を愛した男を仰ぎ見て、胸が疼くのを感じた。
(寝顔とか……反則だろ)
起きている時と違って、わずかだがあどけない。
目元のホクロを見ていると、虐めていた時の記憶が蘇ってきて、胸がぎゅっとなった。
──お前の母ちゃん、オメガ!
そう言って、周囲の人間を焚きつけた昔を、思い出す。
紅葉の母親は、華奢なオメガだった。幼稚園でそれを知らない人間はいないほど、迎えにくる紅葉の母親は、線が細くて美しい人だった。紅葉だけでなく、園のみんなに分け隔てなく優しかったのを覚えている。
だが、オメガから生まれたという一点で、紅葉は虐めの対象になりがちだった。
臣は両親ともにアルファだったから、自身も当然アルファになるものだという選民意識のようなものを持ちながら、事あるごとに、紅葉を揶揄っていた。紅葉が自分の言うことを聞かない時、あるいは自分の方を見ない時、たちまち幼い頃の臣は、不機嫌になったものだ。
「ん……」
紅葉の顔を見ながら、とりとめのない記憶の海を泳いでいると、臣の視線の強さに反応したのか、紅葉が目を覚ました。
「臣ちゃん……」
全く無意識のうちに、寝言で臣の名前を呼ぶなんて、お人好しにもほどがある、と臣は、ともすると浮き立つ心を沈めながら、思った。
──幼馴染なのに、身体を重ねてしまった。
背徳的な行為の数々を強いられたのに、紅葉のことを嫌いになるどころか、ここにいていいんだ、と言われたみたいで、その温もりが、臣の心の深い部分を、不思議と安堵させた。
ふ、と目を開けた紅葉が臣を認識する瞬間、眼差しが優しくなる。
その変化に、小さく胸が疼く。
「大きくなったな、お前」
臣が感想を述べると、紅葉はふにゃ、と笑って、腰を押し付けてきた。
「コレのこと……?」
「ばか」
臣の腹に、熱くなった剛直が押し付けられて、紅葉の立ち直りの早さと、欲望の強さに、怯む自分を隠蔽したくて、憎まれ口を叩く。
紅葉は目を開けると同時に伸びをして、猫のように長くなったあとで、囁いた。
「俺、臣ちゃんをもっと独り占めしたい」
言って、臣の額にちゅ、と触れるだけのキスを落とす。
紅葉のあまりにまっすぐな言葉は、眩しすぎて、臣にはもったいない気がする。
そんなに、思われるような何かを、持っているかどうか、自信がない。
そんなに、特別扱いされるような、理由がない。
「別に、俺は……」
本当は、相手が紅葉で良かったと今は思っている。
けれど口に出すのは恥ずかしくて、臣は思わず言葉を濁した。
素っ気ない態度を示す臣に、紅葉は別段、怒るでもなく、ぎゅっ、と抱きしめてくる。
「臣ちゃん、今度は、もっと気持ち良くしてあげるね」
「べ、別に……っ、気持ちいいとか、別に……っ。どうせ孕むんなら早い方がいいだろ。俺は、オメガとしてここにいるんだから……」
昨夜以上に愛される想像なんて、つかなくて、照れと羞恥心から、反射的に撥ね付けてしまう臣だった。すると、紅葉は整った眉を寄せて、忠告するように言う。
「臣ちゃん……俺は、臣ちゃんがオメガだから好きになったんじゃないよ。臣ちゃんだから、好きだし、愛そうと思えるんだよ。できれば臣ちゃんにも、俺をアルファとしてだけじゃなく、赤澤紅葉という人として見てほしいと思ってる。……我が儘、かもしれない、けど……」
「紅葉……」
ふと見せる紅葉の寂しげな表情に、臣は胸が痛んだ。
だが、臣が勇気を出して、その指先を紅葉に伸ばす前に、紅葉がふと思い出したように言った。
「臣ちゃん、「つがい機関」から、二週間後に検査だって、言われた?」
「ん? ああ……、面倒な決まりだよな」
「……そっか」
巣ごもりをしたオメガは、巣ごもりの平均期間である二週間が経つと、妊娠の兆候があるかどうか、国の直轄機関である「つがい機関」で検査を受けることになっている。大抵そこで太鼓判を押され、結婚届と同時に式を挙げるが、稀に巣ごもりが上手くいかなかったり、不妊治療を受けるカップルも中にはいるらしく、「装置」の出したカップリングにどうしても馴染めない者も、ごくわずかだが、いないわけではないようだった。
どうしても上手くいかなかった場合、彼らには別の選択肢が与えられる、という話は、ふわっとだが担当者から聞いていた。しかし、具体的な道筋については、臣の決意が固く、失敗することに、ほとんど興味がなかったこともあり、確認していなかった。
臣の相槌を聞いて黙りこくった紅葉に、「どうした……?」と尋ねると、紅葉はやにわに深刻な顔になった。
「臣ちゃんを孕ませるのは俺だ。遺伝子検査で俺以外の種を孕んだことがわかったら、デカップリングされるかもしれない」
「え……?」
突然の告白に、臣はそれまであった甘い衝動が、スッと引いていくのを感じた。
「なんだよ、それ……」
「「機関」はきっと、そこまでは話してないよね。俺のプライバシーに関わる話だし……」
でも、もう時効だから、聞きたいなら話すよ、と言われ、臣は胸に巨大な石を投げ込まれたような気がしながら、頷いた。
「俺は、林檎と蜜柑の種に打ち勝って、臣ちゃんを孕ませる必要があるんだ。臣ちゃんのパートナーとして登録されるためには……もっと言うと、俺がアルファだってちゃんと認められるためには、臣ちゃんが俺の種で受精するようにするしかない。だって俺は──施設上がりの、出来損ないの、アルファだから」
「っ……」
出来損ない、と紅葉が自嘲すると、臣は胸をガリ、と爪で引っ掻かれるような気がした。
「っそれじゃ、果物たちと俺が、つがわなきゃいいだけだろ……? そんな、施設の提示した条件なんて、無視すれば……」
「俺たちの状態はおそらくモニタリングされているだろうから、嘘をついてもすぐにバレるだろうし、決まりを破れば、害が臣ちゃんにも及びかねない。悪趣味な嫌がらせだよね。でも、婚姻に失敗したカップルの多くは、再教育施設に送られることが決まってるんだ。俺も、この婚姻がデカップリングになったら、またアルファ専用の再教育施設に逆戻りすることになる」
「さい、教育……?」
「そう。俺は……いわゆる施設上がりなんだ。アルファだったから成人とともに一度は外に出られたけど、再教育施設の規約からは逃れられない。出来損ないのアルファは、外に出るのと交換条件で「装置」に登録されて、オメガとカップリングする。もちろん、婚姻に対する拒否権は、他のアルファと同じように付与されてるけど。俺は……残念なことに、それに該当してるんだ。施設内でも、だいぶ無茶をしたから」
「無茶……って、何したんだ、お前?」
「ん? ああ……生活態度が反抗的で扱いづらいアルファだって、たぶん「装置」のデータの備考欄に書かれてるだろうってだけ。でも、長年施設で暮らしてきたから、成人したら、外に出たいと思ったんだ。俺には、どうしてもそうしたい理由があったから……」
誰にも何も言わずに、突然、引っ越していった紅葉が、そんなことになっていただなんて、全然知らなかった。今まで臣は、「装置」が選ぶのは、運命の相手だと思ってきた。だけど、本当は、違うのかもしれない、という可能性に思い至る。
「でもね、俺は、ちゃんと臣ちゃんのこと、好きだよ」
「そんな……」
「ごめんね。今まで黙ってて」
言うと、紅葉は毛足の長い大型犬のような表情をした。臣は今、自分がどんな顔をしているのか、紅葉に失望した顔を見せているんじゃないかと思うと、酷く不安になった。こんな時に、自分の保身を考えてしまう思考回路を、臣は嫌悪した。紅葉に抱いた恋心を、試されているような気がする。
「臣ちゃんに、他に好きな人がいないなら、俺のことを好きになってもらえるように、一生懸命努力する。できることは、何でもする。でもそれは、俺のためじゃない。いや、一部は俺のためでもあるけど、臣ちゃんのことが好きだから、するんだ。……エッチと、似てるね?」
「茶化すな。それ……大事なことだろ」
紅葉の言動を叱ると、何がおかしいのか、嬉しそうに笑われた。
「ん。俺は臣を施設へは絶対に行かせたくない。絶対、俺の種を孕ませてやる。でもそれは、俺が臣ちゃんを好きだからだ。どうしても、臣ちゃんとカップリングしたいと思うからだよ」
──ずっと、何をそんなに焦っているんだろう、紅葉らしくない、と思っていた。
臣の知る紅葉は、良い意味でも悪い意味でも、マイペースで、誰から小突かれても、自分の道を貫き通すところがあった。外の理由に、軽々に動かされないところが、紅葉だった。けれど、「出来損ないのアルファ」と口にする紅葉からは、やり切れない自嘲が漂ってくる。
それは、傷になっているからだ、と臣は思った。
紅葉が必死に努力するのは、傷ついた自分を否定したいからだ。
その傷をつくったのは、たぶん臣だった。
だとしたら、臣には責任がある。
──出来損ないの、オメガの子!
そう言って紅葉を傷つけて、皆を煽った、小さかった臣に、責任がある。
紅葉との婚姻が推奨されたのには、それなりの理由があるのかもしれない、と臣は思った。昔の臣が傷つけた紅葉を、今の臣が癒せるなら──それは大きな、強力な、臣にとっての理由になる。
──けれど……。
臣は、同時に気づいてしまった。
紅葉が施設との関係を切りたいならば、誰とカップリングしても、いいのではなかろうか、と。
「臣ちゃん」
「な、……何?」
一度、心に浮かんでしまった疑念を、臣は慌てて否定した。
「俺が抱いてる時の臣ちゃんが、一番可愛かった。だから……俺のものになって?」
「──っ……」
言って、引き寄せられたかと思うと、唇を指で辿られ、ふにゅ、と開いたころへ、キスが舞い込んでくる。心地の良い、洗練された、いかにもアルファらしいやり方。でも、紅葉らしいかと考えると、少しだけわからなくなる。
──紅葉が、施設から出たいと思う、本当の理由は何だ……?
臣は、密かに混乱し、そんな自分を恥ずかしく思った。
小さな棘が、胸の奥で痛む。
けれど、それを紅葉に見せるのを、臣は躊躇った。
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