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第15話 恋と破局
──小さい頃、大人たちの目を盗んで、そういう話をしたことがある。
微睡んでいるうちに、その時のことを、臣は思い出していた。
みんな、好きな人がいるかどうか、内緒にするから教え合いっこしよう、と言いだしたのは、臣だったか、それとも臣の周りに集う、他の誰かだったか。幼稚園の砂場の片隅で、先生の見張る視線をなるべく避けて、怪しまれないように集った臣を含む園児たちは、その淫靡な遊びに夢中になった。
しかし、誰かを好きになることは、禁止事項で、懲罰の対象だった。
最初は誰もが、いるかいないか、言葉を濁し、ある者はハッキリと否定した。
そんな中、紅葉だけが、「いる」と首を縦に振ったのだ。
それで砂場の群れは密かに大騒ぎになって、誰を好きなのか、紅葉に言うことを迫る緊急会議という名の吊るし上げ大会が開かれた。
──いけないんだぞ、そういう気持ちでいちゃ。
臣か、誰かが、一向に口を割らない紅葉に向かって砂をかけ、突き飛ばした。
すると紅葉は起き上がって、突き飛ばした相手の目をまっすぐ見て、言った。
──人を好きになるのが、どうしていけないの?
虐められっ子の紅葉は、いつでもすぐに泣くことで、絡んできた子供のガス抜きになっているところのある、典型的な弱虫のはずだった。それが、今日に限って、突き飛ばした子だけでなく、周囲の取り巻きに対してまで、毅然とした態度で立ち向かったのだ。
その時、臣は紅葉の大人びた問いに、答えることができなかった。
──人を好きになるのが、どうしていけないの?
あの言葉が、ずっと胸の奥に刺さった棘みたいに、臣を苦しめてきた。
思い出してみると、どうして忘れることができてしまったのか、不思議なぐらいに、それは臣にとって、大きな出来事だった。
***
朝の遅い時間に起き上がり、時計を確認すると、もう十時を回っていた。
「起きた?」
コーヒーの匂いをさせたカップを持ってきた紅葉が、臣のいるベッドサイドに静かに腰掛けた。
「身体、大丈夫? コーヒー、良かったら飲む?」
臣が頷くと、紅葉は臣の好みを聞き、しばらく席を外したかと思うと、ミルクの半分ぐらい入った、カフェオレを持ってきてくれた。
「果物たちは?」
「まだ眠ってるみたい。彼らも昨夜の臣ちゃんのフェロモンに当てられたみたいだから、あれから二人で色々してたみたい。果物たちが個人的に愛を育むことは、禁じてないからね。彼らが想い合ってるの、いいよね。俺は好きだ」
「そう……なのか」
「ん。だから昨夜も楽しんだんじゃないかな」
言いながら、臣がカップを半分空にするのを、慈しむような目で、紅葉は見ていた。こうして明るい陽光の中で会話をしていると、紅葉とセックスしたことが、まだ信じられなかった。しかも、最後は臣が自分から乗っかって、腰を振ってねだったのだった。
「……」
臣がまだぼうっとしたまま、カップを空にすると、紅葉は臣をすっぽりと掛布で覆った。
「暖かくして、俺のをいっぱい注いだから、ちゃんと臣ちゃんのお腹に届くようにね」
そう言って、背中を撫でて、こめかみにキスをする。
こういうところは、本当にアルファっぽくなったな、と思う臣だった。
紅葉にこうして優しくされると、臣は罪悪感でいっぱいになる。
理由はわかっていた。
今になって思い出すなんて、間抜けな話だが、メンタルブロックが働いていたせいなのか、当初はぼやけていた紅葉との交流が、次第にハッキリとした記憶となって蘇ってきていた。
それに拠れば、紅葉には、好きな誰かが、いたのだ。
あの砂場での一件は、まだ有耶無耶なところもあったが、「どうしていけないの?」とまっすぐ訊いてきた紅葉の声だけは、はっきりと思い出すことができていた。臣が呑気にオメガになったことについて悩んでいた頃には、紅葉はもっと過酷な状況にあったかもしれないのに、そのことを問い質すことが、どうしてもできない。
それに、この状況を手放しで喜べない理由は、まだ他にあった。
「な、紅葉。今朝の話だけど」
空になったカップを片付けにいった紅葉が、戻ってくるや否や、臣は切り出した。
「アルファにある婚姻拒否権、紅葉にもちゃんと付与されてるんだよな……?」
「ん? うん、あるよ。さすがに施設でもそれは奪えないからね」
「それ、使ったことあるか……?」
「ないね。念のために言うと、ファーストキスも臣ちゃんとだからね」
「そっか……」
臣がホッとして俯くと、紅葉は何を思ったか、そんな臣の頭頂部にキスを落とした。
「果物たちが起きてこないから、俺がブランチをつくるよ。サンドイッチでいい?」
「あ、ああ……」
「できたら呼ぶから、ゆっくりしててね」
紅葉は臣にそう囁くと、ゆったりとした足取りでキッチンへと引っ込んでいった。
***
やがていい匂いがしてきて、臣が服を着てダイニングキッチンへ出ていくと、紅葉がサンドイッチとカフェラテを用意してくれていた。
「どうぞ。果物たちの分は、あとに取っておこう」
「お前って、何でもできるんだな……」
「アルファですから」
「それ、関係あるか?」
「さあ……?」
テーブルについた臣が混ぜっ返すと、紅葉が穏やかに口角を上げた。
「臣ちゃん、嫌いな食べ物ってないよね?」
「ああ……。その、紅葉。作ってもらっておいて悪いんだが、食べる前に、実はお前に話がある」
「ん?」
何事も順調そのものという様子で、ひょいと顔を上げた紅葉に、臣は気後れしながら、テーブルの上で拳を握り締めた。怯むな、と自分に言い聞かせる。こういうことは、早い方がいいに決まっている、と震える唇から言葉を吐き出そうとすると、紅葉が傾聴の姿勢になった。
おかげで、話し合いの雰囲気が出来上がる。
「あのさ。俺に、訊いておきたいことってないか? 例えば──昔のこととかで」
「ないよ。んー、いや……ある、かな。でも……ん」
紅葉が本能的に否定したあとで躊躇いを見せたことで、臣はやっと決心がついた。
震えながら口を開く。
「紅葉。提案する。デカップリングしないか。俺たち」
「え……?」
思い切って吐き出した言葉の意味を、一瞬、唖然とした紅葉が、ちゃんと認識したのかどうか、臣にはわからなかった。臣が再び言おうと口を開くと、手を上げて紅葉がそれを制止した。
「聞こえてる」
冷たい声だった。アルファが怒るとこんな風になるのかと思うような、身が凍るような緊張が走る。けれど、口に出した以上、最後までやり切るしかなかった。
どう言葉を継ごうか迷っていると、不意に紅葉が問うてきた。
「どうしてそう思うの? よく考えた? 勢いで言うようなことじゃないって、わかってるよね? 臣ちゃん」
「……それは、わか、ってる」
「俺は、臣ちゃんを幸せにしたいとは思うけど、あんな施設に入れるような真似をするなんて、絶対に嫌だよ」
「わかっ、てる……」
「じゃ、何で?」
臣に問う紅葉の声は、苦しげに喘ぐようだった。
「理由は? 俺、臣ちゃんと、上手くいってなかった……?」
「違う。そうじゃない」
「じゃ、どうして急に?」
「急にじゃない。いや……急に聞こえるのも、仕方がないけれど……」
臣は弁解をしながら、立て続けに疑問を放ってくる紅葉に、胸を抉られるような気がした。
臣は、幸せに、なれるはずだった。
紅葉の犠牲の上に立つ幸せでなかったら、このまま喜んで、すんなりと受け入れただろう。けど、そうではないとわかった今、臣は一方的に与えられるそれを、享受できない。自分がそんな立場にいないことが、わかってしまった。紅葉と結ばれるべき相手との仲を、無意識にとはいえ、臣が裂いたのだと、わかってしまった。
「どういうことなのか、説明してくれる……?」
深刻な紅葉の声に、臣は胸が引き裂かれそうな想いをしながら、顔を上げた。
「お前さ、……好きな奴とか、いるんじゃないのか?」
そっと尋ねると、紅葉は絶望する寸前のような声で、笑った。
「……何それ?」
みっともないほど震えた声。
それは秘密を暴かれて、動揺しているようにも見えた。
臣は、思い出してしまっていた。幼稚園の砂場で、臣がどんなに手を尽くしても、教えてはもらえなかった、紅葉の「好きな子」の存在を。その相手のことを、今も想い続けているから、再教育施設から出たいと決めたのではないか。その手段が「装置」による婚姻を受け入れることならば、きっと紅葉は、その子を探すために、手段を選ばない。
「いるならいるでいいんだ。でも、それなら余計に……俺と婚姻するのは、間違ってる。友達ならいい。何でも話すし、お前が望むなら、できる限り喜んで協力もする。でも……、婚姻は駄目だ」
「……何それ? 臣ちゃん、自分が何言ってるか、わかってる?」
「わか……ってる、つもりだ。不公平なことも、わかってる」
「不公平? 何が? 臣ちゃんがオメガだから? 俺が出来損ないのアルファだから?」
「ちがう、そうじゃない! 俺が、一方的に紅葉と婚姻するのが、不公平、って意味で……」
「……何それ?」
大事なものを失くした時、こんな顔をするのだろうと思うような、紅葉の憔悴した表情に、臣は唇を噛み締めた。自分を卑下する人間に、紅葉を変えたのは、臣だ。臣が紅葉なら、そんな相手を許したり、好きになったりしない。でも、いずれ外に出て人探しをするなら、想い出話のできる誰かを確保して、話を聞くことからはじめるはずだった。そんな時、カップリング相手が幼馴染だとわかったら──考えたくないが、もしも臣なら、そのわずかな手がかりを、掴むだろう。
アルファは、最高三回まで、相手を拒絶し、選ぶことができる。
でも一度つがってしまったら、もう二度と片想いには戻れない。
つがいとなったアルファとオメガは、片方が死ぬまで添い遂げるからだ。
今、紅葉とデカップリングすれば、双方に一時的に傷が残るが、少なくとも、紅葉には好きな相手とカップリングするまで、拒絶する手があと2回は残る。確率的には低いとしても、その残っている可能性を、臣との婚姻で、捨ててしまうよりはいい。
それに、臣は罰を欲していた。
あの砂場での出来事に対する、相応の罰を。
「言ってる意味がわからない……。臣ちゃんは、どうしたいの。デカップリングしたいの?」
「……したい」
そう言い切ると、身の置き所のない沈黙が下りた。
「今、デカップリングした方が、傷が少なくて済む。紅葉も、俺も……」
「……何それ?」
紅葉は、湧いてくる感情を抑えるので精一杯という顔をして、震える手を胸に当てた。
「臣ちゃん、そんなに優しかったっけ? そんなに残酷で、俺のこと……、いっぱいエッチもしたのに、何とも思ってないなんて」
「何とも思ってないわけじゃない……っ」
「じゃ、何で……! 臣ちゃんが好きだって言ってるだろ。どうして信じてくれないの。あの時だって……っ」
「え……?」
あの時、という言葉が出た時、臣は、紅葉があの砂場での出来事を指しているのだ、と半ば本能的に気づいた。ならばなおさら、このままにはできない。このままにしておけば、きっと全員が不幸になる。
「あの時……幼稚園の砂場で、俺に好きな人がいるってことがバレて、騒ぎになった時、臣ちゃんは、俺の想ってる相手が誰だかわかったから、告げ口したんだろ……っ?」
苦しみもがくのを耐える声で、紅葉が地を這うような言い方をした。
「怖くなったから。っでも俺は──俺には……」
そう言った紅葉は、涙を流さずに泣いているみたいだった。
「も……」
思わず手が伸びそうになり、臣は自制した。ここで混ぜっ返しても、双方に傷が増えるだけだ。
もし、紅葉がデカップリングすることで残る2回のチャンスに気づけば、きっとこの場も、もう少し穏やかになるだろう。だが、今はまだ、時間が必要だった。臣は何も言うことができないまま、じっとテーブルに置いた自分の拳を見つめた。
やがて、紅葉が深い溜め息をついて、言った。
「止そう。俺は、少し考える時間が欲しい。……ブランチ、ひとりで食べてくれる?」
精一杯の自制をして、紅葉はそう呟くと、背を向けた。
やがて、ガラリ、とサンルームからバルコニーへ出る扉が、紅葉によって開けられる音がした。
「……ごめん」
臣は、聞こえないトーンで言うと、ぐい、と眦を拭った。
「やめろ……っ。俺が、泣く資格なんてないだろ……っ」
滲んだ視界をクリアにすると、臣はまるでやっつけるように、サンドイッチを口にした。
砂を噛んでいるような味がした。
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