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第16話 林檎と蜜柑

「厄介なことになったな……」 「うん……」  林檎が零すと、蜜柑は戸惑うような顔をした。  目が覚めて、リビングダイニングに出ていったら、臣がひとりで泣き腫らした目を擦っていた。驚いて声を掛けるべきか迷っていると、気丈にも臣は果物たちに気づくと、何もなかったように装った声で言った。 「おはよう、林檎、蜜柑。紅葉がサンドイッチつくってくれたから、食べるといいよ」 「紅葉さんは……?」  姿がない自分たちの主を探して視線を巡らすと、臣が静かにサンルームのある方を見た。  釣られて果物たちが視線をやると、サンルームの向こうにあるバルコニーのベンチに、ひとり座っている背の高い赤毛の青年の姿が見えた。 「紅葉はいらないって。俺は先に食べたから、好きにしてくれ」  そう言って、ひび割れた笑顔を無理矢理に向けられると、果物たちは顔を見合わせ、頷かざるを得なくなった。  果物たちが、かけられたラップを剥がしていると、臣は問われる前に、自分の非を認めて俯いた。 「……ちょっと、喧嘩。俺が悪いんだ」  言ってから、勤めて冷静な様子を取り繕うとするのが、痛々しい感じがする。 「コーヒー、入ってるから、セルフでやってくれる? 俺は向こうのソファにいるから」  ダイニングの椅子に座っていた臣はそう言って立ち上がると、果物たちを残して、リビングのソファに移動した。  何かを聞き出す雰囲気では到底なくて、昨夜の交わりとは全く違う沈んだ空気に、果物たちは、とりあえず朝の身支度をしてから、食事を済ませ、紅葉のいるバルコニーへと出てみた。  そこでは、紅葉が背を曲げて、鼻歌を歌っていた。昔、流行した戦隊もののテーマソングに似た調べに、アルファといえど、人の子なのだと認識を新たにさせられる。 「あ、おはよ」  果物たちの気配に気づくと紅葉は顔を上げて歌うのを止めた。 「おはようございます」 「食事、ありがとうございました。その、寝過ごしてしまって……」  林檎と蜜柑が交互に言葉を紡ぐと、紅葉はちょっと影のある笑みを向けて言った。 「いいよ。俺たちは、みんな臣ちゃんのお婿さんだからね。立場は違えど、境遇は同じだから、あんまり遠慮しないでほしい」 「……臣さんと、何かあったんですか?」  蜜柑が心配そうに口火を切った。林檎は黙って聞いている。林檎のパートナーの蜜柑は、林檎の義弟でもあるのだが、母親の血が濃く出ているせいか、石橋を叩いて渡るよりも、まず何でも物怖じせずに踏み出す傾向があった。  紅葉は、蜜柑の問いに答えようとして、一度は開いた口を閉じ、下を向いた。 「ん……。あった。ごめんね、二人とも」 「……」 「……」  二人が沈黙を返すと、紅葉は少し窶れた横顔を晒し、「きみらにも言っておかなきゃならないな」と言った。 「俺と臣ちゃんは……デカップリングするかもしれない」 「え……っ?」 「ど、どうし、て……っ」  その言葉は衝撃的で、さすがに二人して動揺した。  すると紅葉は力なく笑って、自分の境遇を話してくれた。  再教育施設にいたこと。臣との因縁。そして、臣がデカップリングを提案してきたこと。  それは衝撃的で、聞かずにいた頃と同じ態度を取ることが、難しくなるような内容だった。 「でも、臣ちゃんを責めないでね。きっと色々、思うところがあるんだと思う。あの子は……俺のことを絶対に見捨てない、凄く強いところのある子なんだ。だから、俺は好きなんだけど」  今回ばかりは、裏目に出てしまったよ、と呟くと、紅葉は顔を上げた。 「なるべくきみらの意に沿うように、破局だけは避けられるよう話してみるけど、万が一のことも考えられるから、覚悟だけはしておいてほしい。それと、もしデカップリングすることになっても、責任は、至らなかったアルファの俺にあるから。そこだけは間違わないで」  言うと、紅葉は痛みを堪えるようにして、笑った。 「それから──うちの会社への引き抜きの件は、臣ちゃんとデカップリングしたとしても、関係なく進めていいかな?」  紅葉はAKカンパニーというITと教育に特化した会社の代表を務めている。再教育施設内にいる十六歳の時、たった一人で起業したその会社は、年々大きくなり、今ではフィリピンとシンガポールに支社を持つまでに成長していた。今回の婚姻で林檎と蜜柑の名前を知ると、紅葉は当然のように二人の経歴を調べ上げ、林檎と蜜柑の双方に、引き抜きの話を打診してきていた。 「それは……」 「僕たちは、あくまで臣さんのオマケみたいなものなのに、そこまでしていただくのは……」  林檎と蜜柑が顔を見合わせて尋ねると、紅葉はアルファの貌つきになって答えた。 「誤解だ。きみらが優秀なことに変わりはないよ。うちだって慈善事業をやってるんじゃないんだ。前にも言ったけど、臣ちゃん経由で知り合ったというだけで、コネで取ろうとしているわけじゃない。切っ掛けはたまたま臣ちゃんだったけど、仕事ができる逸材だったから、粉をかけたんだ。……断るかどうかの判断は、きみらに任せるけど、うちとしては良い人材はいくらでもほしい」 「わかり、ました……蜜柑」 「うん。義兄さん。僕たちも、私情は挟みません」 「ありがとう」  紅葉は少しだけ、ホッとした表情で頭を下げると、また空を見ながら何かのメロディーを口ずさみはじめた。  ビル風が、建物の間を抜けてゆく音がする。  紅葉の鼻歌はおおよそ静かにかき消されていった。それは、まるで紅葉と臣の関係を表すようで、不吉なものを果物たちに感じさせる。 「あの、紅葉さん」 「?」  林檎が声を掛けると、気が抜けたような表情の紅葉が振り向いた。今まで生きてきて、仕事の関係で何度かアルファには逢ったことがあるが、どのアルファも、こんなに無防備なところを見せてはくれなかった。彼らは支配層に相応しく、泰然としているのが常だが、今の紅葉は年相応の子供のように見える。 「我々に、できることは、ありませんか……?」  恐るおそる切り出すと、紅葉は少し考えた末、静かに呟いた。 「ん。できれば……臣ちゃんの傍にいてあげてくれる?」 「傍に……ですか」 「俺、あの子が不幸になるの、駄目みたいなんだ。俺は、あの子に数え切れないほど、たくさん借りがある。俺はどうなってもいいけど、臣まで幸せじゃなくなったら、生きてる意味も、頑張ってきた甲斐も、なくなる。だから……」 「……わかりました。傍にいます」  蜜柑がキッと顔を上げて宣言する。 「ありがとう。あ、サンドイッチ、食べてくれた? 味大丈夫だったよね……?」 「美味しかったです」 「ありがとうございました」 「うん。またつくるよ」  紅葉の声に相槌を返すと、アルファはへにょ、と笑った。これまで果物たちが逢ってきたアルファは、力にものを言わせて服従を強いてくる性格の者ばかりだったが、紅葉には、何だか大型犬がしょげてるような雰囲気があり、飄々としていながら、どこか憎めない不思議なところがあった。  風の舞い上がるバルコニーからサンルームへ戻ると、林檎と蜜柑は顔を見合わせた。 「義兄さん、どうする……?」  言いながら、もう答えの決まっている声で蜜柑が問うた。  昨夜、互いに散々、話し合い、愛し合った。そして、二人とも臣が好きになったことを認めざるを得なくなった。アルファである紅葉のことも、初めて逢った時から、好ましく思っている。  もちろん、パートナーとして、果物たちは誰よりも互いを深く愛している。だが、昨夜の交合で、愛に順番を付けられないこともあるのだ、ということを、身にしみて実感させられたのも事実だった。  紅葉と臣は、いわば、義兄弟である果物たちの、新しい家族も同然だった。  そんな彼らが傷つけ合っているのを見るのは、忍びないし、不甲斐ない。 「僕たちも、決めないとね……?」 「ああ。だが、状況がどれほど悪くとも、私は彼らに賭けたい」  林檎が言うと、蜜柑も強く頷いてくれた。 「うん。僕もそう思う」  腹違いの兄弟として、互いに色々あっただけに、林檎と蜜柑の間は、信頼もひとしおに深い。父親が一緒のために、別倉家の次男と三男として生を受け、どちらも妾腹の身にもかかわらず、一度は認知されたが、パートナー申請を出したために、勘当されて、二人だけで身を寄せるようにして生きてきた。半日違いで林檎の方が早く生まれたせいで、与えられた名前は、どちらも見舞いにきた父の秘書が、苦し紛れに買ってきたフルーツから取られたものだった。  間違って呼ばれても、すぐに訂正できるし、覚えやすくていいだろう、と開き直られた時は、殴りかかろうとした林檎を蜜柑が止めた。  色々あった分、どちらも修羅場慣れしている自覚がある。  だから、紅葉と臣が潰れそうになった時、支えることができるかもしれない、と果物たちは思った。このうら若きアルファとオメガを、どうにか幸せにしてやりたい、と強く願うのは、「装置」が出した適合率のせいだけではない、と思いたかった。  昨夜、妖艶に腰を振りながら、泣いていた臣の表情が脳裏を過ぎる。  泣き顏さえも、とてもきれいだった。 「とりあえず、臣さんの話を聞こう。全てはそれからだ」 「そうですね……、傍にいてほしいと、言われてしまったし」 「ああ。だが、決めるのは、我々だ」  人生で、賭けをするのは初めてではない。  きっと、最後はうまくいくだろう……と、林檎と蜜柑は互いに顔を合わせ、そっと祈った。

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