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第18話 ほどける痛み
バルコニーへ出ると、風が高層階を駆け抜ける音がした。
その風に乗って、紅葉のハミングが聴こえる。臣が外へと足を踏み出すと、気配に気づいた紅葉が、ふと振り返った。
「臣ちゃん、寒くない? 大丈夫?」
Tシャツ一枚にデニム姿で出てきた臣に、紅葉は優しく言葉を掛けた。
膝から崩れ落ちそうになるような、紅葉の思いやりが、臣の心に痛みを覚えさせる。
「さ……さっきはごめん、紅葉。でも、俺……」
思い切って頭を下げると、紅葉は臣と、臣の後ろにいる果物たちを交互に見た。
「中、入ろうか? 臣ちゃん。果物たちも、一緒に」
言って、臣たちを促して、紅葉はリビングダイニングの二人掛けのカウチの片側に腰を下ろした。カウチと直角に配してあるソファに、林檎と蜜柑がそれぞれ座る。臣は、迷った末に、少し紅葉と距離を離して、同じカウチの端っこに腰掛けた。
「臣ちゃんに、話さなきゃならないことがあるんだ」
口火を切ったのは、紅葉だった。
「でも、その前に、きみが本当に望むなら、デカップリングしてもいい」
「紅葉……」
臣の方を見て、そう言った紅葉は、哀しげに笑っていた。
「臣ちゃんを想う気持ちは、本物だってこと。それだけはわかってほしい。俺は、臣ちゃんが好きだし、他の誰にも代えられないと思ってる。臣ちゃんがいたから、今こうして俺は、いられるんだよ。それは、わかってほしい」
揺るぎない声で、紅葉が言うのを聞いているうちに、臣は身体が震え出すのを感じた。そんなことを願う資格など、ないけれど、離れたくない。離したくない、と思う。けれど、臣が告げ口をしたことまで覚えている紅葉が、臣をそのまま許すだろうか、と考えると、謝りたい気持ちはあれど、望む勇気は出てこなかった。
「デカップリング、してもいいって……」
臣が先を促すように、紅葉の方を見る。
「うん。でもそれには、臣ちゃんが妊娠していないことが最低条件としてある。俺はきみを離すつもりはないから、孕ませてしまいたいけれど……無理矢理するのは、やっぱりちょっと違うよね」
紅葉は肩を竦めて戯けたが、哀しみを纏ったその姿は、美しく冴え渡っていた。
こんな紅葉なら、きっと誰だってすぐに好きになる。
臣以外の誰だって、仲良くなりたいと思うに決まっている、と思った。
「臣ちゃんが言ったとおり、俺には好きな人がいる」
「っ」
その言葉に、今度は臣が、拳を握って耐える番だった。
「でもそれは、臣ちゃんが想像しているような人じゃないと思うよ」
「好きな人、いるんだな……やっぱり」
胸を抉られるような衝撃に、声が歪むのがわかったが、どうしようもなかった。
「臣ちゃんがどうしてそんな顔をするのか、俺には理解できないから、訊くけど、あの日、臣ちゃんは、俺が誰を好きか知ってたから……、園長先生に告げ口しにいったんじゃないの?」
「え……?」
「俺が──きみを好きだって知ってたから、……だから怖くなって、先生に言いにいったんじゃないの?」
「え……っ?」
その瞬間、臣は思わず紅葉を仰ぎ見た。
そこには、じっと臣の方を見ている、紅葉の顔があった。
「俺には好きな人がいるよ。でもその人は、臣ちゃん以外にいないんだ。何度も言ったよね、好きだって。ちゃんと聞いてくれてないんだと思って、凄くショックだった。だから聞いてくれるようになるまで言うよ。俺の好きな人は、臣透って名前なんだ。それでも臣ちゃんは、デカップリングしたい……?」
「っ──……」
臣が言葉を詰まらせ、紅葉の方を凝視していると、蜜柑が林檎にそっと耳打ちをし、席を外した。
「臣ちゃん」
「お、俺は……」
好きな人がいると言われた時、胸が抉れるように痛んだ。どうしてだろうと考えた。そして、臣は最初から紅葉が好きだったのだということを思い出していた。好きだから、気になって、視界に入ってくると胸がざわついて、どう接したらいいかわからなくて、反発して、酷いことをたくさんしてしまった。
自分のものにならないから。
思うとおりに動かないから。
それなら、いっそ、関係ごと壊れてしまえばいい。
そう思っていた。
そう思いながら、自分を正当化することでしか、自我を保てなかった。
だから園長先生に告げ口するなんて、狡くて汚くて卑怯なことができたのだ。
臣は、紅葉のちょっと普通でないような、融通の利かないところや、一度言い出したら梃子でも動かない、頑固で一途なところが、面倒で、大嫌いだと思っていた。
それが、「好き」という感情の裏返しだったのだと、今ならわかる。
「も、紅葉は、そいつのこと……、嫌いにならないのか。どうして……」
「どうして?」
「だって……、お前が誰かを好きでいるって、園長先生に告げ口したの、俺だって知ってたんだろ……? それが原因で、再教育施設に入れられたんだろ? それなのに、俺が好き? そんなの……」
あるわけがない。
紅葉がそんなこと、思うわけがない。
自分を陥れた人間を、好きだなんて、普通は、そんなこと考えたりしない。
「信じられなくてもいいよ。俺は、運命の相手が臣ちゃんで、嬉しいから」
「っ……そんなの! 俺は、お前を施設に売った張本人なんだぞ……! それなのに、お前に、あ、愛して、もらう、なんて……っ」
後悔に胸が切り裂かれる思いだった。紅葉を売ったこと。自分の浅はかさ。それすら飛び越えてくる紅葉の、まっすぐな言葉と心。それを受け入れられない愚かで矮小な自分。オメガでさえなければと、死ぬほど願って過ごした青春時代よりも、強く、今、自分自身でなければ良かった、と臣は思っていた。
「俺はね、臣ちゃん」
だが、紅葉は臣の方を見ながら、穏やかに、噛んで含めるように、言葉を紡いだ。
「再教育施設に入ったおかげで、自分を見つめ直すことができたよ。この気持ちが何よりも強いことを、何度も確認できた。施設で、臣ちゃんを想うこの気持ちが、本物かどうか問われる時が、何度もあったんだ。好きな人の名前を言わないと、酷いことになるぞって脅しも、たくさん受けた。でも、臣ちゃんの名前を出せば、きっと迷惑がかかる。それだけは絶対に嫌だった。だから、表向きは遠くに引っ越して、誰にも何も言わないことにした。急にいなくなったのは、そのせい」
穏やかに言う紅葉は、臣から視線を逸らさない。
臣は自分がクシャクシャになってゆくのを、感じていた。
「告白して、臣ちゃんに迷惑をかけたくなかった。だから、十二年も施設に入ることになっちゃったけど。でも、そのおかげで、臣ちゃんと再会できたし」
「……っぅ……」
臣が呻くと、紅葉は痛ましいものを見るような視線を向けて、静かに続けた。
「施設を出る許可が下りた時、この気持ちが本物かどうか、「装置」に訊いてみようと思ったんだ。俺はその賭けに勝ったと思ってる。「装置」のお墨付きをもらったんだ。人生大逆転だよ。臣ちゃんが、俺のものになるなんて。しかも、初めての判定でだよ。文句の付けよう、ないよね?」
その時、飛び上がるほど嬉しかったんだよ、と紅葉は言った。
「──幻滅、したんじゃないのか……」
こんな俺で。
こんな奴で。
しかし、臣の危惧を軽々と、紅葉は越えるように問いを発してきた。
「なんで?」
「俺は……っ、お前を売ったんだ……! 自分のちっちゃなプライドを守るためだけに……。施設に十二年もいたなんて、知らずに、のうのうと暮らしてた。つい昨夜までは、お前を売ったことすらも、忘れてた大馬鹿なんだ!」
「だから?」
「お前に……っ、愛してもらう、資格なんて……」
涙が出てきて、視界が滲みはじめる。
泣くのだけは許されないと思った、臣の声が震える。
「ね、臣ちゃん。人を愛したり、愛されたりするのに、資格なんていらないよ。そんなことで嫌いになるほど、俺の気持ちは軽くない。臣ちゃんが忘れてるみたいだから言うけど、俺が、陰で別の誰かに虐められてると、必ず助けに入ってくれたよね。自分は虐めるくせに、俺を誰かに渡そうとしたがらなかった。運動会の駆けっこで転んで泣いた時も、臣ちゃん、半周余分に走って、俺の手を引いてゴールまで一緒に走ってくれたよね。二人でヒーローごっこするの、凄く楽しかったし。そういうの、忘れちゃった? 忘れちゃうほど、苦しかったのかな……」
「そんな、こと──……」
あっただろうか。あったかもしれない。
でも、忘れていた。紅葉の存在すら、言われるまでは忘れるように、努めてきた。
「俺は、確かにいじめられっ子だったけど、それ以上に臣ちゃんからは、色々なものをもらったよ。俺が泣くと、最初に迎えにきてくれるのは、いつも不機嫌な顔した臣ちゃんだったよ。こんな理由で──失望したかもしれないけど、俺には、そんな臣ちゃんが、ヒーローに見えた。今も、その気持ちは変わらないよ」
臣は耐えられなくなり、ぎゅっと両手を祈るように合わせた。
「──ごめん」
決壊寸前の涙を、何とか鼻をすすることで防いだ。
紅葉がこれ以上ないほど静かな声で、臣に相槌を打つ。
「ん……?」
「俺、お前のことが、あの時、憎かったんだ」
「……」
紅葉は何も言わなかったが、ショックを受けているようだった。
それでも、臣は続けた。続けなければならなかった。
「俺の思いどおりにならないなら、もういいって思った。お前が、好きな奴がいるとか、頑固なこと言うから、頭にきて、哀しくなって、それから、……そ、そういう風に想われてる相手が、その子のことが、羨ましくて……それで、俺……っ」
「うん」
「謝って済む問題じゃないけど、俺は、お前にすごく大きな借りが……」
「臣ちゃん」
臣が震えながら続けると、やにわに紅葉がそれを止めた。
「ひとつ確認しておきたいんだけど、俺に借りがあるから、昨夜、俺とエッチしたの?」
臣はふるふると首を横に振った。
「昨夜は、思い出してなかった。今朝になって、その……急に記憶が蘇ってきた、っていうか……ほんと、ごめん」
「──それ、きっと臣ちゃんの心の傷になってたんだよ。深いところに閉じ込めて、見えないようにしないと生きていけないぐらい、臣ちゃんの中では重大なことだったんじゃないの? 俺は、臣ちゃんが好きだけど、無理強いするのは嫌いなんだ」
「わか……っわからない。でも俺……っ」
好きだと言われて、いいところを並べられても、臣の罪が消えるわけじゃない。
そう言うと、紅葉は「わかってるよ」と拗ねた口調になった。
「もしかして、臣ちゃんが別れを切り出したのって、俺のため? 俺にカップリングを拒否する権利が残ってるから、それを使わせて、可能性を広げようとしたとか? でも、俺の相手は臣ちゃんだし、そんな風に相手のことを想いやれるところが、やっぱり臣ちゃんだなあ、って思ったんだけど」
「も、みじ……っ」
「それに、好きな人の過ちぐらい、笑って許せるぐらいには、成長したつもりだよ、俺」
「っ──……ぁ──……っ」
許すと言われて、静かに決壊しはじめた臣との距離を、紅葉はそっと縮めた。
肩が触れる距離に紅葉の存在がいる。臣は、まるで奇跡だと思った。
涙が零れ落ちる。
「それに、臣ちゃんが、そこまで俺のこと想ってくれてたなんて、夢みたいだ。「装置」の出した結論が正しかった、ってことになるだろ? 俺たち最高のカップルになれるよ」
ちょっと戯けて紅葉が言う。臣は洟水をすすりながら、クシャクシャになった顔に笑みを浮かべようと努力した。
「そ、う……なる、の、かな」
「……おいで、臣ちゃん」
紅葉の長い腕が、言うなり臣を引き寄せた。
「長い間、つらかったね。でも、もう俺のこと、好き……だよね?」
トントン、と背中を軽く叩いてあやされる。耳朶に吹き込まれた紅葉の言葉に、臣はやっと、犯した過ちに凝り固まっていた心が、少しずつではあるが、溶け出すのを感じた。
「……っていうか、恥ずかしい……」
「臣ちゃん、こういう時は、「うん」って言うんだよ」
涙を指で拭われながら、教えられる。
紅葉に何かを教わる日がくるなんて、想像だにしなかった臣は、短く恭順した。
「ん……っ」
「ふふ。これでもう──本当に、俺の臣ちゃんだね」
とろりと笑う紅葉の笑顔がきれいだった。臣は、もう二度と紅葉に対して、嘘も偽りも、言わないと心に決めた。
「紅葉、好きだ」
「ん。うん」
「俺も紅葉が好きだ」
初めて心から、思ったことを言葉にできる。
「うん。知ってる。俺も臣ちゃんのこと、大好き」
紅葉は甘く笑って、臣の一番ほしいと願っていた言葉をくれた。
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