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二、分岐点⑭
***
「で、彼の匂いで心が読めるのはどうでしたか」
零時先生は、アイスを食べていた妃芽之くんに視線を送ると、すぐに飲み込んで保健室から出ていった。空気を読んでくれたようだ。
「きっかけは君の心に傷を負うことだったかもしれない。許されることではないのはもちろんですよ。でも、彼の心の匂いは、どうでしたか」
彼の匂い。
「番の心の匂いが伝わるのは辛いですか」
「……辛いというか」
「赦したくないのに、彼の気持ちが嘘偽りなく感じると赦してしまわないといけない。怖い、ですね」
ハッとして先生の顔を見ると、優しく微笑んでいた。
先生には頑なな僕の気持ちが見透かされているようだった。
「彼の匂いが不快じゃなかったのなら、もう少しだけ心の匂いを嗅いで、あの日の事件を赦すことが君の今の一番大事なことだと思います」
先生が言うには、この先ずっと沖沼くんを憎んで苦しんで生きることは、僕の心に負担が大きいと。
だったら沖沼くんからの好意を感じ取り、あの日は事故だったと赦せればきっと未来でまた人を好きになれるという。
「僕は番がもう持てないのに、それでもまた誰かを好きになれるんですか。番になれないのに」
諦めていた。
あの日、利圭と破った少女漫画。
零時先生は優しく笑った。
「この世界に、運命の番なんてお伽話が存在するように。心から好きな人が現れるよ。貴方が心からセックスしたいってちゃんと思えるような相手は現れます」
ゆっくり。
ゆっくりでいいから、まずは僕が殻を壊さないといけない。
ヒート中のセックスは怖いかもしれない。
けれど彼の匂いは嫌いじゃなかった。僕に苗字を呼ばれたときのくしゃくしゃの笑顔と心の匂いは全く同じだった。
「私だってそうさ。最初は番になって後悔するかなって思ったけど」
アイスのカップのからを、ゴミ箱に入れながら零時先生は苦笑している。
「好きだなって気づいたら、理屈ではもう覆らないんだよ。愛情って同じぐらい返したら、相手はその倍で返そうとして、いつのまにか小さな石ころみたいな愛情がね、部屋から溢れそうなほど大きくなってることがあるんだ」
零時先生は僕の周りを見渡して、どこに愛情があるかなって探していた。
「今は、石ころもないです。ただ、匂いが不快じゃなかった程度」
「こんぐらいかな」
指と指の間を数ミリ空けて、先生がケタケタ笑うので、その数ミリをさらに狭める。
「0は膨れないかもしれないです」
「君も頑なだな。意地だけで自分の心を崩したら駄目だよ」
先生はまだ笑っているけれど、なぜか僕の心は少しだけ軽くなっていった。赦したわけじゃないのに。納得したわけじゃないのに。
なのに、匂いで心が読めることに少しだけ安心してしまっていた。
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