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6. 君が望めば
発情期が治まって、仕事に出たのは水曜からだった。
火曜には、ほぼ体調は普段どうりだったけど
検査薬を使ったら反応があったから、念のため
休んだ。
九条さんは毎日電話をくれた。
体調は大丈夫か?欲しいものはないか?
声が聞けるだけで落ち着いて、満たされて
あの訳の分からない不安が消えた。
ずっと聞いていたくなる柔らかなバリトン。
久しぶりの出勤はちょっと緊張した。
何しろ飲み会の席から、九条さんに背負われて
姿を消したんだ。きっとあれこれ聞かれるだろう。
案の定、更衣室にいた先輩数人が、インフルの
話を早々に切り上げて、あの日の話しを始めた。
「ホント~に何にもなかったの?」
「だからなかったですって!俺、泥酔で
家に送ってもらって終わりです」
「九条さんもそう言ってたらしいけど…
あの人の話しなんて信じられないしなぁ~」
その日1日、何度同じ話をしたか分からない。
今まで話した事もない、名前すらうろ覚えの人からも
声をかけられた。
俺はともかく…九条さんはここでは
すごい有名人だったのだと、改めて気づいた。
俺は密かに、そわそわと九条さんの姿を
ずっと探していた。一日中。
会いたい理由があった訳じゃない。
なのに仕事中も休憩時間も、なぜかずっと
九条さんが、どこかから現れるのを待ってた。
会ったら何て言おう。
何て声をかけてくるだろう。
バカみたいに、そんな事をずっと頭の中で
シミュレーションしていた。
九条さんの姿を見たのは結局お昼休み。
広い食堂の離れた席で、遠目から見ただけだった。
九条さんは班長グループの同世代の人達と、
俺も同期の何人かとお昼を食べて
お互い目も合わせなかった。
ー きっと下手に声をかけたりしない方が
いいんだろうな…騒がれたら迷惑だろうし
そんな風にぼんやり思っていた。
結局それきり、一言も交わさず1日は終わった。
帰宅して一息ついた頃、メッセージが届いた。
九条さんからだ。
(元気そうだったな、お疲れ)
ー 目も合わせなかったのに
食堂でしか会ってないのに
気にしてくれてたのか…
短いそっけないメッセージに
喜んでしまっている自分がいた。
(ありがとうございます。もう大丈夫です)
俺もそっけないメッセージを返した。
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