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神の仕事 ①

 朝食は待つよう言われ随分経つが、一向に音沙汰なく、何か問題でも起きたのではと秌は急ぎ足で内裏に向かった。  するすると滑るように迷路の廊下を行けば、煌隆の風呂場の方向からのろのろ歩いて来る将極の姿を見つけた。 「宰相様……あら、鼻血……ですか?」  鼻を押さえる将極の手は真っ赤に染まっており、秌は一度屋敷へ戻り、掃除をしていた下女から借りた手拭いを渡してやる。 「すまん。いや、主上がなかなか上がって来られないものだから、様子を伺いに行ったのだが……」  浴室から聞こえる響の激しい嬌声に、不覚にも頭に血が昇り、理性と本能が暫く格闘していた。流石に覗きはしなかったものの、響が乱れる姿を想像して体が熱くなってしまった。 「あらあら、宰相様ともあろうお方が。主上の天罰が下っても知りませんよ」  そんな事で、とも思うが、今度の后妃に対する煌隆の入れあげようは将極も目を伏せたくなる程で、本当にやりかねない。  両の頬を思いきり掌で叩き表情を引き締め、みっともなく鼻に詰めた手拭いの切れ端以外はいつもの険しい顔に戻った将極に、秌はくすりと笑う。 「官吏一厳格な官人……でしたっけ? そんな姿他の者達には見せられませんね」  二人が立ち話していた場所から程近い自室に、秌は将極の手を引き押し込んだ。煌隆が風呂を出た時に自分が居なければいけないと駄々をこねた将極をぴしゃりと言いくるめ、長椅子に座り頬杖をつく。  たまには困らせてやればいいと、畏れも無く歯を見せて笑う事が出来るのは、永年の信頼。 「ふふ……それにしても、媛响様には困ったものですね。こちらに来て千幾年、どんなにか美しい后妃にも眉一つ動かさなかった将極までも惑わすなんて」  手拭いを裂き、小さく丸める秌の手元を見て将極はそっと鼻に詰めた手拭いを触る。一向に止まらない血は手拭いを通して指先を汚す。 「滅多な言い方をするものじゃない。秌こそ随分入れ込んでいるだろう」 「だってとても真っ直ぐで、可愛らしいんですもの。いい加減で退屈していた日々が嘘のよう」  秌は丸めた手拭いを将極に渡してやる。真っ赤に染まった手拭いを見て将極は苦笑を浮かべた。  そんな将極の様子を見て秌は小さく微笑む。 格子の窓から見える裏庭からは僅かに春の匂いが漂い、訪れた鳥は喉が冷えて旋律はまだ調子が悪い。 「こうしていると、昔の事を思い出しませんか?」 「こちらに来たばかりの事か」  遥か昔、まだ煌隆が神になったばかりの事。先代の神が総てを放棄してしまったこの地は混沌としていて、無秩序にさ迷う魂に溶け込まないよう屋敷の一部屋に籠っていた。秩序が整うまで、あちこち朽ちかけていたこの屋敷で三人身を寄せあった。とは言え煌隆はいつも、寝る間も惜しんで仕事に明け暮れていた為、実質いつも将極と秌の二人きりだった。  覚悟はしていたものの、異界にやってきて右も左も分からない状況。  煌隆の手足になると誓ったのに、実際は常世で何か出来るのは煌隆だけだった。それほどに彼は特別だった。 「あの頃はまだ四季も無く、毎日寒さを二人で耐えていましたね」 「何も出来ない歯痒さもな。あの時程己の無能を呪った事もない」 「……あなたは必死だったものね。おかげで今は宰相にまで。私は何をしてた? もっと出来る事があったのでは」  格子の向こうを見たまま声を落とす秌の横顔を、将極はじっと眺める。  秌はただただ、寒さと悔しさに震える将極を慰めた。多忙と孤独に自己を保てなくなりそうな煌隆の手を引いた。  仕事に勉強に二人が明け暮れる中、一人それしか出来なかった頃の自分を秌は未だ悔いているらしい。しかしそれが、どれ程二人の救いになったか、彼女は知らない。  昇天して以来初めて、秌がそんな台詞を口にしたのは、響の影響なのか。暫く前、昔話を聞かせてやったからだろうか。  将極はそれきり黙ってしまった秌に声を掛けたが、内裏中に響いた怒声に掻き消されてしまった。 「将極! 秌! 誰もおらんのか!」  将極は鼻に詰めた手拭いをそろりと外す。血はようやく止まったようで、鼻のまわりについた乾いた血を秌が濡らしてくれた手拭いで清める。  これでもうすっかり、興奮して鼻血を出した等と誰も気付かないだろう。  さて、怒声で屋敷を壊される前に煌隆の元へ行かなければ。 「のんびりし過ぎたかしら」  ころりと悪戯っぽく笑う秌に、将極は背中を向けたまま呟いた。 「……お前が居るから主上は安心して后妃を任せられる。自信を持て。お前が何もしなかっただ等と、このおれが誰にも言わせはしない」  振り返る事も無く閉められた戸を見たまま、秌は頬杖をついて薄く笑む。  将極の言葉は煌隆の言葉と思って良い。永い間心にわだかまっていたものが、ほんの少しだけ軽くなったのを感じた。自分はこのまま、今のままできっと、いいのだろうと。  勢い良く立ち上がれば、手拭いの残骸を屑入れに捨てて秌も風呂場へ向かった。  自分の仕事は后妃の、響の世話だ。きっとくたびれてしまっている事だろう、労って差し上げなければ。

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