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ⅱ ④
──いってらっしゃい。
積もった雪に反射する眩しい陽光に目を細める。ダイヤが乱れる程吹雪いていた雪も昼にはすっかり止み、その名残に灰色の足跡をつけて遊んでいる子どもを見るともなく見る。
バルコニーで食後の一服をする春樹の少し離れた場所に、うらぶれた様子の女性が子供を目で追いながら深く煙を吸い込んでいる。あの子どもの母親だろう。
雪をいたぶる事に飽きた様子の子どもは柵を両手で握り下界を眺める。幼い子ども特有の、喉を転がすような笑い声。同時に、母親の柔らかい声。
「滑らないように、気を付けなさい」
──いってらっしゃい、気を付けてね。
子どもの足によってすっかり溶けて踏みしめられ、あちこち凍りついた雪の残骸を眺めながらずっと耳に残って離れない、その見た目に相応しく透き通った冬真の声を思い出す。
思えばその台詞は、耳に久しい。
春樹は早くに二親を亡くし、唯一の親戚であった母の妹に引き取られた。叔母は面倒見も良く活発な女性で、およそ親と変わらないような愛情をくれたが、根っからの仕事人間で朝は早く、夜は遅かった。
自分の生き甲斐は仕事だし、思わず子育ても出来たから満足だ。絶対結婚はしないと、いつか一度だけ聞いた事がある。
そんな人だからお金に不便は無く、両親の遺産で春樹は大学まで出る事が出来た。その頃からずっと独り暮らしだし、叔母と朝を過ごした記憶も少ない。だからこそ、より耳に残った。
──いってらっしゃい、気を付けてね。夜はご飯作って待ってるから。
出掛けに家の中をあまり弄らないようにキツく言っては来たが、不安は残る。金目の物は自宅に置いてないとはいえ、手離し出来る程相手を知りもしない。
いつの間にか親子はいなくなっていて、再び降りだした雪が、灰色の地面を修復するように、静かに降っていた。
「今年はよく降りますね」
声に振り向けば、いつから居たのか西島が隣で白い息を吐いている。
確かに、初雪を観測してから良く降っている。雪の少ない土地だが、今年は例年に比べ冷え込み、雪も多いだろうと天気予報士が震えながら天気図を指していた。
「そうだ、そろそろ忘年会しようと思うんですけど、いつが良いですかね」
飲み会の幹事は一番年若い者の仕事の一つ。誰しも一度は経験あるそれを、西島が配属された時から面倒見てやっている。
「来週末位が良いんじゃないか? 年末の忙しい時期だ、こう言う事はさっさと決めて捩じ込んでおかないと、中々掴まらないからな」
「ああ、そうですよね、去年も僕がもたついてたから近藤さんは彼女と予定いれちゃって中々……」
西島は言い掛けた言葉を飲み込んだ。
確か去年の年末は、彼女がどうしてもと言うので記念日にクリスマスに忘年会に、二人だけのイベントを毎週末織り込んでしまい西島が忘年会を組むのに苦労していたのをぼんやり思い出した。思えば何故、去年に限って彼女は急に恋人のイベントだと囃したのだろう。今となっては知る術も無い。
急に黙った春樹の態度を勘違いしたのか、西島が頭を下げた。
「すみません、まだ一週間も経ってないのに」
「良いって、気にしてないから。何度も言ってるだろう」
あれ以来、西島は時折腫れ物に触れるように春樹に接する。それが心地よくも嬉しくもあるし、鬱陶しくもある。
何度気にしていないと言っても、彼は春樹が強がっていると思っているらしく、弱々しく首を振り「分かってますから」と表情で言って見せるのだ。少なくとも、もういちいち口に出すのも面倒だから彼女の事に触れて欲しくない春樹の心情は分かっていないだろう。
それをはっきり伝えた事はない。こんなに慕ってくれる後輩に自分の冷たく乾いた心を知られたくないと言う思いもあった。
彼女にも、西島にも、春樹はその想いに応えてやれない。
彼女には総て見抜かれていたが、せめて西島にだけは「優しい近藤さん」を演じて居たいと、春樹は近頃思う。
「じゃあその辺で皆の都合で後は調整しますね。場所は……いつもの焼肉屋ですかね」
「そうだな、課長の肉好きには困ったもんだ」
「本当っすよ。たまには焼肉屋以外に行きたいですよ」
先に戻る西島を見送り空を仰げば、舞い落ちる雪に今この瞬間、まるでこの世に自分一人残された錯覚。
顔に落ちるとそれは溶けて消えた。
──いってらっしゃい、気を付けてね。夜はご飯作って待ってるから。家の事は任せといてよ。
冬真は、あどけなさの残る笑顔で遠慮がちに言った。それはまるで夫の帰りを待つ妻のようだったし、親の帰りを待つ子どものようでもあった。
結局春樹は、昼から降り頻る雪に冬真の白い姿を重ね、いつもはだらだらやる残業もそこそこに早めの家路につくのだった。
春樹は鍵を差し込む手を止めドアを見詰めた。道路から見上げた部屋の窓には温かな明かりが見え、今目の前にあるドアからは光が漏れている。
長年一人で暮らして来た部屋に誰か居ると思うのも妙な感覚だが……
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