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ⅱ ⑥

 翌日、心配されていた大雪はその片鱗も見せなかった。空は雲一つない快晴で、久し振りに顔を出した太陽はその存在を激しく主張していて、からりと眩しい。雪解けに湿った道路も、昼を待たずすっかり乾いていた。  災害対策に駆り出されずに済む事を、西島が喫煙所で盛大に喜んでいた。 「それにしてもどうしちゃったんですかね? 今年の天気は」  朝のニュースでも、お馴染みのお天気お姉さんが困惑してしどろもどろになっていた。日本列島を分厚く覆っていた雲が、一晩ですっかり消え去っていた。こんな事があるのかと、朝のニュースは消えた雲の話題一色だった。 「この異常気象、いよいよ地球も終わりっすかね!?」  言ってる事は物騒だが、西島は鼻を膨らませわくわく興奮している。どうやら最近よくある世界の終わりを預言した古代遺跡や、その可能性を追究している特番に感化されているようだ。 「んなわけないだろう。馬鹿な事言ってないで仕事しろ」  この日、結局雪は一片も降らず、初の大雪警報も話の種になっただけだった。  春樹は定時で庁舎を出て自宅近くのスーパーで食材を適当に買い込み、いつもより随分早く帰宅した。  何となく、誰かが待っているかと思うと自然帰る足も早くなる。  玄関を潜ると、快活な声ではなく怒鳴り声が耳に飛び込んだ。 「何やってんだこの馬鹿!」  いつもの透き通った声からは想像もつかない程の怒気を孕んで鋭く響く。併せて口調も乱暴で、話しているのは本当に冬真だろうかと訝しむ。  来客があっても絶対に出るなと言ってあるが、冬真を尋ねて来た客でも居るのだろうか。そろりと居間を覗けばそこには携帯に向かって怒鳴る冬真一人。 「ものには程度ってものがあるだろ!」  背を向けて怒鳴る冬真の表情は見えないが、時折頭を掻き回したり部屋中うろうろ歩き回ったり、相当怒っているようだ。 「いいか、明日には通常通りに戻せ。やり方が分からない? お前オレの下で何年になる? オレの仕事の一体何を見てたんだ! とにかくやれ!」  冬真は携帯を閉じ、ソファーに投げ付けた。そこで初めて居間を覗く春樹と目が合い、不機嫌に釣り上げた目を細めて頬を僅かに染める。 「春、おかえり……ひょっとして今の、聞いてた?」  冬真は恥ずかしそうに頭を掻き、ソファーに体を沈め投げた携帯をポケットに仕舞う。 「結構な剣幕だったな」 「やだな、春に聞かれてたなんて恥ずかしい」  コートをソファーの背に掛け、隣に腰を下ろすと冬真は春樹をちらりと見上げ、両手で顔を覆って大きな溜め息を吐く。 「こう言う場合は、ほっといた方がいいのか? それとも、何があったか聞いた方がいいのか」 「……いずれ仕事を任そうと思って育ててた後輩なんだけどさ、良い機会だから一人でやってみてって任せて来たんだけど」  冬真は顔を覆ったまま話す。少し寒いが、春樹は黙って耳を傾ける。 「もう一人前になっていい頃なのに、新人でもやらないようなとんでもないミスやっちゃって。大事な仕事だからちょっとしたミスが取り返しのつかない事になっちゃうんだって、普段から厳しく言ってたのに……」  そんなに繊細な仕事なのかと、春樹は意外に思う。冬真位の歳で教育までやっているのも意外なのに。  仕事の事を話す冬真は、普段の子どもっぽい様子からは想像出来ない真剣な雰囲気を纏っている。 「やっちまったもんはしょうがないだろ。その後輩、教えて何年になるんだ? 冬真の下ならまだ若いんだろう」 「十年」 「十年!?」 「あ! ウソウソ、冗談だよ。そんなになるわけないじゃん。でも長い事面倒見てたのは本当だよ」  覆っていた手を伸ばし、大きく背中を反らせてソファーにずるずると沈み込む。 「折角の休暇なのに、もう心配で心配で。でも簡単には戻れないからさぁ……」  また大きく溜め息を吐いた冬真の頭を押さえ、ソファーに押し込む。勢い余ってソファーから落ちた冬真は床に座り込み春樹の膝を叩く。 「何すんのさ!」 「意外だな」 「え?」 「ただの家出したガキだと思ってたけど。ちゃんと責任感ってのも持ってたんだな」  春樹は床に座ったままの冬真の頭をがしがしかき混ぜる。さらさらの白銀は、少し手櫛を入れただけで簡単に整う。 「冬真が手出し出来ないなら、その後輩信じて任せるしかないだろう。そんな難しい顔してたって似合わねぇから、笑ってろ」 「春……やっぱり春は優しいね!」  しゃがんで飛び付こうとする冬真の頭を掴み、抱きつかれる前に押し戻す。 「ケチ! いじわる!」 「優しいとか言ったのはどの口だ。俺は元からケチで冷たい人間ですから」  冬真は少し淋しそうに目を伏せ、頭を掴んだ春樹の手を握り口の中で呟く。 「そんな事ないよ、春が本当は暖かい人だって、オレ知ってる」  呟いた声はあまりに小さく、聞きとれなかった春樹は腰を折って耳を傾ける。すると冬真は「隙あり!」と叫び素早く春樹の首に手を回し、抱きつく。  反射的に下半身を踏ん張った春樹にぶら下がる格好で、満足気に鼻を鳴らしている。 「何やってんだ、この……! じゃれてる暇があるなら早く飯にしろっ!」  冬真は唇を尖らせ、しぶしぶキッチンに立つ。  今夜のメニューは夕べのカレーをアレンジした焼きカレードリアだそうな。カウンター越しに覗けば、今は何かのスープを作っている。色からして、南瓜か人参か。 「それにしたって何でそんな抱きつきたがるんだ。あれか、ハーフか外国育ちとかか」  春樹は冬真の白銀の髪と青灰色の瞳を見る。髪は撫でた時、その根本まで細い白銀だった。 「違うよ。生まれも育ちも日本……だよ」 「何だ今の間は」 「気にしない気にしない。それより早くお風呂入っといでよ、お湯冷えちゃうよ」  時々、冬真は端々で引っ掛かる物の言い方をする。体一つで雪の中宿を探していたくらいだし、人には言えない事が多少なりとあるのだろう。  春樹の性格上それをしつこく追求しようとは思わないが、何となく気になるのだった。  風呂から上がれば半纏を着込み、ビールを一本開けてから夕食を頂く。  成程、卵とチーズを落として焼くと辛さが和らぐ。スープは南瓜のポタージュで、濃厚な生クリームと南瓜の優しい味が辛めのカレードリアと良く合う。 「……春?」 「何だ」 「そんな見られてると、何か食べ辛いんだけど」 「ああ……何でもない。うまいぞ、ドリア」 「ホント? 良かった~。でも辛さが足りないよね。あ、ねぇ春、今度唐辛子買ってきてよ。全部使っちゃった」 「そんなもの買うとまた激辛にしやがるから買わん」 「えー!? それでオレにどうしろって言うのさ!」 「辛くない料理を作る努力をしろ。激辛食ってビール飲むと口の中が痛くて堪らん」 「ビール飲まなきゃいいじゃん!」 「お断りだね」 「何だよ、辛いとか文句言いながら全部食べるくせに」  早々と空いたグラタン皿をちらりと見て冬真がスプーンを噛んだまま呟いたが、春樹は聞こえない振りをして視線をテレビに向けた。

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