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ⅲ ①
大雪警報から一週間、続く晴天は道路に反射し眩しく視界を遮る。近所の集積所で立ち話に興じていた主婦達から漏れ聞こえた話は、つい出掛けに冬真が言っていたものと同じで。
洗濯物が良く乾いて、布団も干せて大助かりだと笑っていた冬真は、笑顔の合間に晴天を見上げ表情を曇らせていた。
良い天気なのに暗い顔をするなと春樹が頭をかき混ぜると、すぐにあどけない笑みを見せた。
長く続いた快晴も、その日の昼過ぎに太陽が翳り、夕時さながら世間を灰色に染めればぽつぽつと雨が窓を叩きだす。
西島とバルコニーに出ていた春樹は、今頃大慌てで洗濯物を取り込んでいるだろう冬真の姿を思い浮かべ、笑い声が紫煙と共に小さく漏れた。
「何か最近、楽しそうですね、近藤さん」
いつもぎりぎりまで庁舎に残り残業をしていた春樹は、近頃では早めに切り上げてさっさと帰っている。それも話に上げ、新しい彼女でも出来たのかと西島がからかって小突いてくる。
「そんなんじゃねぇよ。まぁ……ペット拾ったみたいなもんかな」
春樹が頭を撫でてやればころころ笑い、はしゃいでまわる姿と、眠る時は決まって甘えて体をすり寄せる様子は、デパートのペットショップではち切れんばかりに尻尾を振る子犬を想像させる。
しかし我が儘で聞き分けがないところは、犬の方が従順かも知れない。
ペットに意味を間違った方向に解釈した西島は、大袈裟に肩を竦めて春樹を厳しく見上げる。
「まさか近藤さん……家出少女とかに手を出してるんじゃないでしょうね」
「アホか。そんな犯罪染みた事、誰が……」
少女ではないが恐らく家出少年。もっとも少年と呼ぶには些か年を食っているが。
言葉を切った春樹に、冗談で言ったつもりだった西島が本気で怒鳴ってきた。
「近藤さんがそんな事する人だったなんて! あれですか、ショックから立ち直れずに魔が差したんすか。まだ間に合います! その子を警察に預けましょうよ! 僕も付き添いますから!」
「馬鹿、怒鳴るんじゃない。お前の早とちりだって」
周囲の目が二人にサッと集まり、春樹のコートを掴んで揺さぶる西島の頭を小突く。
「……すみません」
ばつが悪くなった西島は、俯いて小さく謝罪した。春樹はその短く切り揃えられた髪をかき混ぜ、問題無いと顔を上げさせた。
頭を撫でてられた西島は、初めての事と春樹の意外な行動に、目を丸める。
「……」
春樹は西島の頭を撫でた手をじっと見て、再び西島の髪を乱暴にかき混ぜる。
「わっ、なんすか近藤さん」
「……いや、別に。硬いな、お前の髪」
「そうですか? 妻からはサラサラだって言われますけど」
銀の糸のように細く、柔らかく指通りの良い冬真の髪を思い出す。触り心地が良いもんだから、何度も撫でているうちに癖になってしまったらしい。冬真と目線が然程変わらない西島の落ち込んだ頭に、気が付けば手を乗せていた。
「何か近藤さん、変わりましたね」
エレベーターに乗り込み、冷えた体をさすりながら西島が横目に見て来る。
無言で目線を返し、すぐに流れる階表示に戻す。
「こう、前に比べて雰囲気が柔らかくなった気がします」
「そうか? 別にいつも通りだろ」
「いいえ、僕には分かります。やっぱり彼女が出来たんじゃないっすか?」
「だからそんなもん居ないって……こうなったらもう、一生独身で通してやるさ」
それはとても、淋しい事なのかも知れない。しかしどうしたってもう、また一から女性と結婚に向けて信頼関係を築こうと言う気になれない。
面倒で、興味も無い。
孫を欲しがる親もなく、継ぐべき家もなく、一生を添い遂げたいと思える相手もない。
叔母だって今も結婚せず一人で立派に生きているし、結婚が総てではない。
「あ、近藤さん、さっきお身内の方から電話がありましたよ」
久し振りに叔母はどうしているだろうかと顔を思い浮かべれば、課内に戻って机上の伝言メモに気付いた春樹に臨時職員の女性がそう言った。
メモには、叔母の名前と、折り返す旨伝えた事が簡単に書かれてあった。
面白い事もあるものだと、春樹はメモをゴミ箱に捨てて、再びバルコニーに降りた。
かじかむ指先で画面を操作し、叔母の携帯にダイヤルし画面を見たまま応答を待つ。画面が変わり携帯から叔母の声が聞こえて初めて耳に押し当てる。
「夏子 さん、職場に掛けないでくれって言ったでしょう」
叔母の夏子に引き取られたばかりの頃、オバサンと呼んで激昂させてしまった事がある。それからずっと名前で呼んでいる。
言い咎めた春樹に対し、不貞腐れた声が返ってくる。夏子の言葉に記憶を遡らせてみれば、携帯を変えた時連絡した覚えがない。
「あー……そう言えば、教えていませんでしたね。それで、何の用?」
『何もカニもないでしょう。ちっとも顔見せないで』
不貞腐れた様子から一変、厳しい声音で説教が始まる。電話もなければ訪ねても来ない、挙げ句唯一の肉親を忘れるとはどういうつもりだ、そもそも彼女とはどうなったんだ、あの子はしっかりしてそうだけど強かでどうも胡散臭い。
こうなると春樹に止める事は出来ない。夏子は自分の言葉に感情が昂る性格で、彼女が満足するまで言わせておかないと口を挟む事もままならないし、逆撫でするだけだと学んだのも引き取られて最初の頃。
春樹は夏子の話を半分も頭に入れず適当に聞き流していた。
『それでね、紹介したい人もいるから』
「え? 何の話?」
いつの間にか落ち着いた声に、聞いていなかった春樹は今話がどこまで進んでいるのか分からなかった。
『だから、お正月。紹介したい人もいるから帰っておいでって言ったの』
この時期の叔母からの電話。話の内容は何となくそんなところだろうと春樹は考えていた。ついでに断る理由も。
毎年何だかんだ理由をつけて帰らない春樹に、夏子は先手を打ってきた。
『たまには元気な顔見せなさい。私はあんたの母親みたいなもんなんだから』
「……わかりました、三箇日のどこかで帰るから。そろそろ仕事に戻らないと」
通話を終えて真っ暗な画面に、ひらひらと雪が落ちる。吹いたら飛びそうな程軽い雪は、すぐに水滴に変わった。
春樹は画面を拭き、短く息を吐いた。
母親、この言葉を出されると弱い。
夏子の事を母と呼べず、心に引っ掛かった靄のような物の正体が分からないまま五年経ち、十年経ち。今更母も叔母もないだろうと自分に言い聞かせれば、たちまち長年隅に隠れている靄が顔を出し、心も思考も覆い尽くしてしまうのだ。
これが気に食わない春樹は、夏子の口からその言葉が出ると、大概の事を許してしまう。
夏子は春樹の事を、息子だと簡単に人に紹介してのけるのに。
指先と鼻の感覚が無くなってきた頃、春樹は仕事に戻った。
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