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ⅲ ②
「春、おかえり~! うわ、真っ白」
「ただいま……ここんとこ晴れてたのに、また吹雪いてきた」
玄関が開いた音にドアに目を向けるも、一向に入ってこない春樹の様子を見に冬真が玄関に出ると、身体中真っ白に雪を積もらせた春樹が雪を払っていた。
湿ったマフラーとコートを預かる冬真の姿を見て、春樹は思わず全身に鳥肌が立った。
「おま、冬真……何だその格好」
見れば冬真はTシャツの袖をまくりあげ、見覚えのある白いズボンは膝丈で切られてしまっている。
暑かったんだからしょうがなかったと、寝室にマフラーとコートを置きに行った背中に溜め息を吐いて居間に入ると、暖かい空気が冷えた体を包む。
成程、あの寒々しい格好はこう言うわけか。
キッチンに戻ってきた冬真は、氷をたっぷり入れた水を一息に飲む。
足元のゴミ箱を覗けば、ズボンの残骸が押し込んである。
「それ、一着しかなかったんだろう。切って良かったのか」
「いいのいいの。春が買ってくれたパジャマ切っちゃうわけにもいかなかったし」
「お前って……」
火の前に立ち、熱気に顔を掌で扇ぐ冬真と目が合う。そのにっこりあどけない笑みに、春樹は薄く笑みを溢す。
「馬鹿だろ」
「あ! 馬鹿って何さ! こうして部屋あっためて、お風呂も入れてご飯も作って、甲斐甲斐しいと思わないのー?」
「そりゃ、それが家に置いてやる条件だからな。後は激辛をどうにかすりゃ、満点だな」
「それだけは譲れないもんね。春だって結局唐辛子買って来てくれたじゃん」
歯を見せて笑う冬真に鼻を一つ鳴らし、春樹は湯気の満ちる浴室に向かった。
熱い湯に浸かれば、一日の疲れが汗と共に流れて行く。長く息を吐いて思考を埋め尽くすのは、今日の晩御飯。冬真は何か鍋を煮ていたようだが、春樹の家に土鍋なんてあったのかと、発掘した冬真に感心する。
春樹は湯の熱さが体の芯に染み、心の深くまで届くように感じた。
その熱は雪のように冷たい心を溶かし、雪融け水は温かな湯となって頭の先から爪先まで全身を巡り満たして行く。こんな感覚は初めてで、しかしそれはとても心地よく、猛スピードで駆けゆく熱い血に身を任せた。
──いってらっしゃい。
──おかえり。
自分は暑がりなのに、部屋を暖め待っていた冬真。
雪を融かすのは、果たして熱い風呂か、あどけない笑顔か。
「何だこの赤い鍋は」
風呂上がりに缶ビールを一息に飲み干し、ソファーに体を沈めれば目の前には煮えたぎった赤い鍋。春樹はぐつぐつと気泡を弾く鍋を見ながら、帰りに買ってきた焼酎を開ける。一緒に買った真新しいアイスぺールに冬真が氷を用意してくれた。
「ビールは? 春焼酎なんて飲むんだ」
「お前が激辛ばっか作るから焼酎に変えたんだろ。で、この血の池地獄みたいな鍋は何なんだ」
「コプチャンチョンゴル」
「こんな恐ろしい色だったか?」
「そりゃ、オレのアレンジ入ってるから」
本当は火鍋とか言う鍋を作りたかったらしいが、材料が無いため諦めたらしい。聞くだに恐ろしげな鍋。どんな鍋なのか聞く気にもなれない。
何だってそんなに激辛が好きなんだと聞けば、美味しいからとしか返事が無いから会話にならない。
鍋から具材を拾うも、野菜は煮えて崩れ、モツは脂が溶けてしまって箸に掛からない。
冬真曰く、土鍋は初めて使ったから火加減が分からなかったらしい。
シメの煮込みラーメンまで平らげれば、買ったばかりの一升の紙パック焼酎は、半分程飲んでしまっていた。
「……冬真、おいで」
春樹は背凭れに仰向き、口の痛みが取れたところで、キッチンで後片付けをする冬真をゆるゆると呼びつける。
エプロンで手を拭きソファーまで来た冬真は、背凭れに体を埋めふらふら揺らす春樹の頭に合わせて首を振る。
「春? 酔ってるの?」
「……別に。冬真、お手」
隣に座った冬真に、握り拳を上に向けて差し出せば、冬真は何の躊躇いも無くその拳に掌を被せる。
「ぶっ。お前、面白いな」
違和感の無い犬のような仕草に、春樹は吹き出し喉で笑う。冬真はきょとんと小首を傾げたままで、被せた掌に更に重ねる春樹の手をじっと見る。
離れた大きな掌にぽんぽんと叩かれ、とろんとした瞳が笑う。
握らされた手を開けば、中には傷一つない鈍く輝く鍵が一つ。
「これって?」
「合鍵。今日作ってきた。お前……冬真も、毎日部屋に籠りっきりじゃ息が詰まるだろう」
「オレは別に」
「良いから聞けって。明日、五時半に駅の……あの喫煙所で待ってろ。ちゃんと戸締まりして出ろよ」
冬真の返事も待たず、春樹はふらふらとドアの角に肩をぶつけながら寝室に引っ込んでしまった。
残された鍵を掲げ、冬真はくるくると回しながら。
「……春、オレ、凄い嬉しい」
翌日春樹は定時で仕事を終わらせ、大急ぎで駅に向かった。顔にかかる雪にも構わず、バスを降りて一直線にロータリーの喫煙所に向かえば、そこにはあの日と同じ、降り頻る雪に消え入りそうな程白く儚い冬真がベンチに白銀を靡かせ一人座っていた。
春樹は足を止め、春樹に気づかずしきりにきょろきょろ辺りを見回す冬真を眺めた。
まるで、今にも、その雪の中に溶けて、消えてしまいそうな冬真は……
膝小僧をさすっている。穿いていたのは唯一の外着、昨日膝から下を切ってしまった白いズボン。そりゃあそれしかないから仕方がないとは言え、さすがに素肌に直接掛かる雪に寒そうに足を竦めている。
「冬真」
「春! お疲れさま~」
「おう。さ、行くか」
春樹は雪の積もった冬真の髪を乱暴にかき混ぜ、手を引いて立ち上がらせる。
「どこ行くの?」
「そうだな、とりあえずその寒そうな足をどうにかするか」
言って駅ビルに入る春樹を追い掛け、冬真は周りをちょろちょろ走り回る。
「オレなら平気だよ?」
「寒そうに擦ってただろ。それに見てて寒い……これなんかどうだ? 真っ白じゃねぇけど」
春樹は自分のお気に入りだと言う店に冬真を連れて入り、薄いベージュのチノパンを渡し、目を丸くしてそれを腕に抱える冬真を店員に任せ試着室に押し込んだ。
試着室側の椅子に一人待っていると、暫くして遠慮がちに開いたドアから冬真が顔を覗かせた。
「お前脚長いな……」
照れ臭そうにズボンを摘まむ冬真の足元は、元々長く作ってあるのに長さはピッタリ。
サイズもピッタリで、春樹は店員に言ってタグを切り取ってもらいそのまま購入を決めてしまった。ついでにズボンに合わせていくつか店員にコーディネートしてもらい、冬真は上から下まで真新しい服で店を出た。
早足で歩く春樹に急いで着いて行けば、次に入ったのは携帯ショップ。
「携帯持って無いんだろ」
「持ってるよ!」
「仕事用のやつだからプライベートでは使えないって言ってたのは誰だっけな」
身分証明書も住所も何もない冬真のために、春樹の名義で携帯を買ってやった。
その後も春樹の買い物ラッシュは止まらず、一息つくため喫茶店に入った頃には、春樹の手には大量の紙袋が下げられていた。
「ねぇ春、どうしたの? 何か変だよ。こんなに沢山買ってもらっちゃって……それも高いのに」
黙ってコーヒーカップを傾ける春樹に、冬真はスマートフォンを四苦八苦して弄りながら問い掛ける。春樹は覚束ない手つきにかつての自分を思い出しながら、その手元を見たままボソボソと溢す。
「俺は無趣味だし、見ての通り一人でケチで質素な生活してたからな。金が余ってただけだ」
アパートは大学の頃見つけた安い部屋のまま、贅沢を好まない生活。車も持たず趣味と呼べる明確なものも無い春樹の給料の半分は貯金にまわる。
唯一拘っているファッションも、春樹は長く着れるブランドを買うため出費は案外少ない。
「それを何でオレに使ってくれるの?」
「捨て犬が鳴いてりゃ飯与えてやりたくなるのが人情ってもんだろ」
もっとも少し前の春樹なら、捨て犬が飢えていようが行き倒れに遭遇しようが無視して通り過ぎた事だろうが。
自分の口が情けを語る日が来ようとは思いもよらない。
「犬扱いしないでよー」
「犬みたいだろうが」
「まぁいいや! とにかくありがとう、春」
冬真はころりと笑い、半分飲んだブラックコーヒーに生クリーム浮かべる。ちらりと春樹を見上げ、目を伏せいつものあどけない笑みと違う、小さな微笑みに瞳を潤ませる。
「……春、オレ本当に嬉しい。これまで何もなかったから……ありがとう」
「なんて顔してんだ。まぁ……あれだ。いつも家事やってもらってるから、その礼みたいなもんだ」
「そんなの、オレが押し掛けてきたんだからお礼なんていらないのに」
「俺がやりたくてやっただけだ。黙って貰ってろ」
返事の代わりに盛大な腹の虫が鳴り、春樹は大笑いして冬真の頭を小突く。照れ臭そうに冬真は腹をさすり、いつまでも笑う春樹に唇を尖らせた。
「あー……こんなに笑ったのは久し振りだ。冬真、何が食いたい。何か食って帰るか」
「じゃあオレ、お寿司食べたい!」
「寿司?」
「そう! 回らないやつ!」
「……お前、ワサビ握れとか言うなよ」
「言わないよ~そんな事………多分」
喫茶店を出た二人は、巷でちょっと有名な寿司屋を目指す。
今日一日で一体幾ら使うのか、春樹は考えない事にした。
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