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ⅲ ③
ぎりぎりまで庁舎に残り、やっと残業が終わり駅に着いた西島は、今朝家を出る前に渡されたメモを財布から取り出した。近頃体調が優れない妻の代わりに、買い出しを請け負ったはいいがその量に溜め息を吐く。
おまけにひとところで済めば良いのに、何かの嫌がらせか駅ビル中を歩かされる。
駅ビルの中には会社帰りのサラリーマンや大学生か何かの集まりやカップルが溢れ、一人大荷物を抱える自分が何だか惨めに思える。
要所要所に設置してあるベンチに腰を下ろし、背中を伸ばし息を吐く。体を戻した先にトイレが見え、途端にもよおす。しかし荷物をここに放置したままにも出来ず、西島は見るともなくトイレに出入りする人々を眺めた。
やたらにトイレ付近に人が集まっているのは、連れを待つ連中か。
ふと、西島と同じように足元に荷物を並べて壁に背を預け、腕を組み退屈そうに世間を眺めるスーツ姿のサラリーマン然とした男を見つけた。しかし並んだ荷物は西島のようにがさがさうるさいレジ袋ではなく、有名ブランドのロゴが眩しい紙袋。
「……て言うかあれって」
見覚えのある横顔に目を細めれば、それは定時でいそいそと腰を上げた春樹。
「あのブランドの山、近藤さんやっぱ彼女出来たんじゃん」
足元に並んだ紙袋はとても春樹自身のものには見えず、誰かの為に買ったものだと確信する。
水臭いと声を掛けようと腰を浮かせた時、春樹の瞳が誰かを捉え優しく微笑む。
これは新しい恋人を拝めるチャンスと西島は腰を浮かす。が、春樹が見ていたのは男性トイレの方で。
「春っ! おまたせ~。トイレ混んでてさぁ。春はいいの?」
現れたのは誰もが振り返る程の白銀。頭の先から爪先まで白く、スラリとした立ち姿からは想像出来ないあどけない笑顔は春樹に向けられている。
二人の会話が届き、思わず耳をそばだてる。
「俺はいい。ほら、行くぞ」
「あ、待って、荷物半分持つよ」
「いい。お前に持たせるとどっかに忘れてきそうだ」
「そんな事ないよ~も~春はやっぱり優しいね!」
「だぁから! 飛び付くな! それもこんな往来で!」
両手に荷物を抱えた春樹は背中に飛び付いたその白銀の青年を振り払う事もせず、背中に抱えたまま西島の視界から消えた。
「……えーっと?」
今見たものを頭の中でどう処理して良いか分からず、西島はとりあえず早く帰宅する事にした。
「ああそうだ、今日は忘年会だから遅くなる」
週末の朝、春樹は朝食を済ませネクタイを締めながら弁当を包む冬真に声を掛ける。
二人で外食をした翌日から冬真が弁当も作るようになった。絶対また西島が変に勘ぐるだろうと準備をしていたが、近頃西島は何やら思い詰めた表情で話し掛けても上の空だ。
ちなみに、あの夜。冬真は流石に山葵握りなんてものは注文しなかったものの、山葵山葵とうるさい冬真に大将が山葵巻きなる山葵だけの細巻きを作ってくれ、大いに舌鼓を打っていた。
「分かった~。オレは適当にするから、楽しんどいでよ」
了解しふわりと笑う冬真に見送られ、春樹はマフラーを巻き直し家を出た。今日も世間は銀世界。寒くなりそうだ。
春樹を見送った冬真は、エプロンを外しクローゼットから真っ白な薄手のPコートを出す。まだ皺一つないコートを羽織り、下駄箱の上に下げてある鍵を取る。
外に出れば、ひらひら舞う雪が頬を撫でる。冷たい風を肺いっぱいに吸い込めば、体の芯から冷たく凍っていくようだ。
冬真は雪の結晶を掌に受け、溶けずに揺れる結晶を指先ですりつぶす。
コートは少し暑く感じるが、春樹が選んでくれたものを脱ぎ捨てる気にはなれない。冬真は道に薄く積もった雪に足跡を繋げながら駅に向かった。
「……ハイ、すみません。午後には行けます」
駅のロータリーで携帯を閉じた西島は、大きく息を吐いて煙草に火をつけた。
あの日駅ビルで見たものを未だ処理しきれず、まともに春樹の顔を見れない。本人に直接確認するのも憚られ、かと言って知らん振り出来る程西島は世渡りが上手いわけじゃない。どう春樹に接すればいいか分からないままとうとう忘年会。とにかく変に顔に出てしまわないよう、頭の中を整理するため午前は妻の不調を理由に半休を取った。
肺から出る煙は、白い息と伴って見分けがつかない。
頭の整理をするにもこのまま喫煙所に居たんじゃ寒さに思考まで固まってしまう。西島はとりあえず改札横のコーヒーショップに向かう事にした。数ある飲食店の中で、唯一喫煙ルームのあるコーヒーショップ。
これを吸ってしまってから向かおうと、のんびり紫煙を燻らせていると、視界の端で白い影が動いた。
見ると少し離れたところで、白い青年が大きく深呼吸をしていた。それは駅ビルで春樹にじゃれついていた青年。
西島は急いで煙草を揉み消し、雪で滑りそうになりながらその青年の元に走った。
「あ、あのっ」
青年は振り返ると、きょとんと目を丸める。
何も考えないまま声を掛けてしまったが、何と切り出せば良いのか。
「なんですか?」
白い青年は挙動不審の西島を見て、春樹に見せていたあどけない笑みとは程遠い、目を細め冷たい視線を寄越す。一言発すれば、口許は不機嫌そうに結ばれる。
「あの……その、僕はですね、近藤さんの後輩の西島と言う者ですが」
「近藤さん?」
「え。えーっと、近藤春樹の」
「近藤春樹……あ! 春?」
「近藤さん」が誰なのか分かったようで、青年は途端に表情を綻ばせる。しかし視線を戻した青年は西島にまた冷たい視線を投げる。西島は慌てて名刺を差し出し、少しでも警戒心を和らげようとにこりと笑う。
「……春の後輩さんが何の用ですか?」
「いやその、少し、話をお聞きしたくて」
青年は受け取った名刺をひらひらと扇ぎながら、眉根を寄せる。
何だってこんなに警戒されてるんだ。春樹の名前を出せばイチコロだと思っていたのに。
西島は寒さと緊張に身を竦める。
「うーん、オレ今あんまり時間ないんですけど」
「お時間取らせませんから!」
どうにかナンパに成功した西島は、予定していたコーヒーショップに青年を連れた。奢るからと言えば、注文したのはこの寒いのにアイスコーヒー。
こうなれば煙草を吸うわけにも行かないと思ったが、丁度喫煙ルームは空だったため西島は少し躊躇いながらドアを開けた。
「えー、その、改めまして、僕は近藤さんの後輩で西島と申します」
「オレは冬真。良い名前でしょ」
「はぁ、ではその、冬真さん。お時間がないとの事なので、単刀直入にお聞きしても?」
「どうぞ」
相変わらず冬真と名乗った青年はにこりとも笑わず西島をじろじろと見る。春樹に対する態度とは雲泥の差。
「あの、近藤さんとはどう言った関係なんですか?」
「どうって?」
「その……」
西島が良い淀むと、冬真はアイスコーヒーを一口飲み、視線を遠くに馳せふわりと笑う。
「春、春は優しいよね。はじめはスーパーに置き去りにされちゃって諦めようかと思ったけど、春はオレを見つけてくれたんだ。文無し宿無しだって言ったら、家事を条件に置いてくれてる。ただの居候だよ」
遠くを見る青灰色の瞳は、西島を見ないまま優しく揺れる。頬杖をついて春樹を思い浮かべているだろうその瞳を覗けば、幸せに満ち足りたような空色の輝きと、悲しげに色を無くした灰色も見えた。
「春ね、オレの頭ぐしゃぐしゃって撫でるの。こんな風に」
伸ばした手が、西島の頭を乱暴に掻き回す。それはいつか西島が初めて春樹に頭を撫でられ髪をかき混ぜられた時と同じ手つき。突然の春樹らしからぬ行動に困惑したが、まるで父親に頭を撫でられたような暖かいものを感じ、少し照れ臭くなったのを覚えている。
それから徐々に春樹の持つ雰囲気が柔らかいものに変わって行った事に気付いた。西島の知る春樹は、リアリストで、クールで、ケチで、どこか人を寄せ付けない背中に、ほんの少し、孤独を感じた。
それがどうした事だ。近頃春樹は良く笑うし、駅ビルで冬真が飛びついた背中からは、孤独のにおいはしなかった。
絶対に影に女性が居るのだと思っていたが、それがまさかこんな何の変哲も無い青年だとは。
いや、異様に白いけど。
「ねぇ、西島さんって言ったっけ? 西島さんも、春の事を冷たい人間だと思う?」
視線を現実に戻した冬真は、再び目を細め冷たく西島を睨む。
いつの間にか敬語がその口から消えているが、歳の頃はそう変わらないようだし、何より今はそんな事を突っ込む場面じゃない。
西島は配属されてからずっと、仏頂面で面倒を見てきてくれた春樹を思う。はじめはとっつき難くて怖そうな人だと感じたが、一見分かり辛い優しさと生い立ちを知ってからは、ただ孤独で、不器用な人なんだと思った。
頭を撫でた掌の暖かさは、本当に冷たい人間のものじゃなかった。
「いや、近藤さんは、優しくて、暖かい人です」
冬真は初めて、西島にあどけない笑みを向けた。
「良かった~、春の事分かってくれる人、ちゃんと居たんだね。それじゃあオレ、そろそろ行くよ。春が帰ってくるまでにこっちに戻って来てたいから。コーヒーごちそう様」
冬真は白いコートを肩に引っ掛け、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを飲み干し出て行った。
「……何か、不思議な奴だなぁ」
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