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ⅳ ③

「ごめんね~今日は買い物で遅くなっちゃったからご飯まだ時間掛かりそう」 「いいよ、たまには一緒に作るか」  風呂から上がった春樹に、冬真は申し訳なさそうに眉尻を下げて手を合わせた。春樹は俯いて上目に見上げる冬真をちらりと見て、頭を撫でようとした手を止めすぐに視線をそらした。  シャワーで白濁を流している間、猛烈な罪悪感と虚無感に消えてしまいたくなった。  西島から送られてきたURLに風呂場でアクセスしすぐに昼間の動画を探し、脳が勝手に高校生役の青年を冬真に変換し再生した。思えばこんなに強い性欲を感じたのは初めてで、この高揚は結婚を考えた彼女には勿論、今までのどの女性にも感じた事はない。  衝動に流されている間はただただ頭の沸騰するような興奮と、痺れるような快感と、埋め尽くす妄想だけが体中を満たした。けれど僅かな液体と共に全てを吐き出せば、後には言いようのない空白だけが残った。  ああ、もう、間違いだなどと言えなくなってしまった。  春樹にとって性行為とは儀礼的なもので、興奮も欲求も、満足も喪失も無く、挨拶に近い感覚だった。動画を観た時にそれとは全く逆の感情を抱いたのはつまり、女性では駄目だったと言う事だろうか。  まだ、心臓がうるさい。  この罪悪感は一体何なのだろう。自慰の助けに冬真を使った事か、そのきっかけが同性愛の動画だったからか、それとも行為自体か。  それにしてもクリスマスの時と言い今度の動画と言い、どうして自分は冬真を…… 「ねぇ春、あれって一体何なの? どこの店にも置いてあったけど、大きい餅とかワサワサした縄とか」 「あ? ああ、そういやもうすぐ正月だな」  隣で海老の殻を剥く冬真の台詞で、春樹は思考の海から帰還した。 「しめ縄? 鏡餅? なにそれ」 「何だお前、知らないのか? クリスマスはあんなに熱心だったのに」 「うーん、正月って存在は知ってるけど、何をするのかはよく知らない」 「……改めて、お前って重度の世間知らずだよなぁ。一体どんな生活してたんだ? 何かわけありみたいだけど、心配する相手とか居ないのか」  ニンニクとショウガをみじん切りにしていた春樹は何となく聞いてみただけだったが、返事がない冬真を振り向けば、目を丸くして驚いている顔に春樹も驚いた。 「な、何だよ」 「春がオレに興味持ってくれた」 「別に興味って言うか、ただ気になっただけだ」  冬真は下処理をする手を止め、腕を組んで唸り出した。やはり話し難い事があるのだろう。 「悩むような事なら話さなくていいぞ」  みじん切りを再開した春樹はぶっきらぼうに答える。しかし心の内では自分が思っていたより気になっているようで、体の方がそわそわと落ち着きがない。  以前は冬真の事にそれ程興味もなく、只の世間話の一環だったのに。今は冬真がどう答えるのか気になって仕方がない。 「んー……何て言ったら良いのか分かんないんだよね。仕事の事もそうだけど、正直春がそんなにオレに興味持ってくれるなんて思ってなかったから、用意してないんだ」  用意してない? 妙な言い方をするもんだ。そんなに複雑な背景があるのだろうか。平々凡々に生きてきた春樹には想像もつかない。近所の奥様達が好んで観ているらしい昼ドラなる物のようなややこしい話だったらどう反応すればいいだろう。 「……本当は、春にオレの事話すつもりなんて全然なかった」 「まぁ俺もあれこれ聞くつもり全くなかったけど」 「何で聞く気になったの?」 「……さぁな、何となく。さっきも言ったがただ気になっただけだよ」 「じゃあやっぱり言えない」 「なんだそりゃ」  それから冬真は少し淋しそうな笑みを返しただけで、二人は黙々と手だけを動かした。冬真の台詞で余計に気になり悶々としたが、春樹はそれ以上強く聞かなかった。  別に、あれこれ聞き出したところで、いつか冬真は自分の家に、生活に帰るのだ。期間限定の居候。何か知って得する事もなければ、知らずに損する事もない。むしろ知らない方が楽だ。  知らない方が楽? なんだその発想は。 「意味わかんねぇ」 「え? 何? エビチリ美味しくなかった?」 「いや、相変わらず辛かったな。いい加減慣れたけど……そうだ、正月で思い出したけど」  近頃の自分のおかしい思考はとりあえず頭の隅によければ、すっかり忘れていた夏子の言葉が蘇る。うっかり来年もすっぽかしてまた小言を聞かされるところだった。  事情を簡単に説明し、正月三箇日は夏子の家で過ごす事を話した。初めは一泊程度で済ませる予定だったが、この際だから三箇日は叔母の家──夏子が聞けばまた「実家と呼べ」と怒鳴られるだろうが。に居座る事にしよう。 「そうなんだ、留守は任せといてよ」 「……ってお前、来ないのか?」 「え。行っていいの?」 「俺はまたてっきり、連れてけって駄々捏ねるんだろうと構えてたんだが」  例の調子でまた我儘を言ってくる事を予想していた春樹は、いちいち言い聞かせるのも面倒で最初から連れて行くつもりでいた。長く自分が部屋を空けるのは物騒だからだなんて、説明用の後付した理由である事は自分の中じゃ誤魔化せない。何せ冬真を連れて行くから三箇日を夏子宅で過ごす事にしたのだ。 「行く、行くよ! わー、春の叔母さんに会えるんだ~楽しみ。ってあれ? ね、聞いてもいい?」 「何だ」 「オレ良く知らないけど、そうゆうのって親の家に行くもんなんじゃないの? 里帰りって言うの?」  春樹は氷が溶けて薄くなった焼酎を飲み欲し、新たに氷を入れる。殆ど焼酎を飲んだ事がないため色々な種類を試しているが、今回はハズレだ。飲みすぎると悪酔いするかも知れない。 「ああ……普通はそうだろうな。俺の場合叔母の家が……育った家だからな」 「て言うと?」 「ガキの頃に両親が事故で死んだんだ。唯一の親戚だった叔母の夏子さんが引き取ってくれて。彼女が育ての親ってわけだ」  さらりと話した春樹と違い、冬真は触れてはいけないものを触ったように表情をさっと暗くさせた。  生い立ちを打ち明ければ誰もが途端に腫物を触るように春樹に接した。この表情も見慣れたもので。この同情が春樹には、鬱陶しくて面倒だった。別に自分は不幸だとか可哀相だとか微塵も感じていないのに、周りがそう接すると、惨めな気持ちにされた。 「何か、ごめん」 「……良いんだよ、冬真がそんな顔しなくたって。俺は何とも思っちゃいないさ」  ああ、そうか。確かに自分は、可哀相だったのかも知れない。両親が死んでも涙を流す事も出来ず、純粋に心配してくれていた周りの人達の想いを理解する事も出来なかった。差し伸べられた手を振り払う事しか出来なかった。それはとても、淋しい事だったのだ。  自分の代わりに涙を流す冬真を見て、初めて感じた。それは暖かい気持ち。 「ほら、もう泣くなって。前に言っただろ、お前は笑顔の方が似合うって」 「難しい顔は似合わないって言ってたよ」 「……そうだっけか」  何だか照れ臭くなった春樹は乱暴に頭をかき混ぜると、冬真は涙を拭って笑顔に戻った。

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