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ⅳ ⑤
気が付けば窓の外はすっかり夜の黒に染まっていて、手持ち無沙汰になった春樹は風呂でも入れるかと席を立った。
夕食も済み、だらだらと飲み続けていた春樹は、すっかり出来上がって殆ど一人で喋っている夏子の声を背中に、煙草を吸いにベランダに出れば、ちらほらと舞う雪が頬に当たる。
パジャマにコートと言う妙な組み合わせも、家に半纏を忘れて来たもんだから仕方がない。
ヒヤリと顔で溶ける雪は、酔いを冷ますには丁度良い冷たさだ。
眼下に広がる街を見渡せば、大晦日でどこも賑わっている様子が、その光の多さから想像出来る。大学の頃一度だけ、ニューイヤーの某か──確かパーティーだとか言っていた気がする。誘われた事があるが、新年を目前に瞳を輝かせる学友達を春樹は冷めた目で見ていた。最初で最後のその誘いを断り、春樹は一人自宅で新年を迎えた。
この、夏子の家を出て独立してから毎年、一人で正月を過ごした。前の彼女も毎年実家で過ごしていて、記憶を辿っても初詣さえ行った覚えはない。
キラキラ揺れる夜景をぼんやり眺めながら、ろくな思い出が無いと一人溜め息を吐いたところで、背後の窓が開いた。
何も言わず隣に立った冬真は、同じく夜景を見て細く息を吐く。
「寒くない?」
「大分酒が入ってるからな、麻痺してる」
ちらりと部屋の中を振り向けば、二人の姿が見えない。
夏子は蕎麦を湯がいていて、千秋は風呂に入ったらしい。
「夏子さんって面白い人だね」
「うるさいだろ。お節介だし」
「そんな事ないよ、楽しい。お節介なのは春の事心配なんでしょ? 春の話ばっかりしてた。ね、春は何で夏子さんの事名前で呼ぶの?」
心の一番奥でいつも息を潜めているあの靄が、そろりと顔を出す。
春樹は答えず、眉間に皺を寄せる。
「お母さんって呼ばないの? 夏子さんは春を息子だって言ってたのに」
冬真の言葉を聞いて、じわじわと侵食していた靄が急速に心と思考に広がり埋め尽くす。
「関係ないだろ、お前に」
靄の不快感に思考は麻痺し、機械的に言葉を投げる。冬真は顔をそむけ、夜景に目を落とす。春樹の言葉を気にした様子も無く、尚も話を続ける。
「きっと待ってるよ、夏子さん」
「何で分かるんだよ」
「何となく。何で名前で呼ぶのさ」
「……別に今更だろ。長年名前で呼んで来たんだ。何か変わるもんでもないだろ」
「そうかな?」
会話が途切れると、遠くに鐘の音が聞こえる。
除夜の鐘を聞くのも、何年振りだろう。春樹の住むアパートは近くに社寺が無く、風向きによっては微かに聞こえる事もあるが、小さな音に耳を澄ます事もとうにやめた。
「……毎年、この鐘の音は良く聞こえるんだ。全国からね」
冬真は耳に手を当て、音が良く聞こえるように耳を澄ます。
「そりゃ、大晦日だからな」
「何の音?」
「鐘の音だよ、除夜の鐘。それも知らないのか?」
「知らない。なにそれ?」
きょとんと春樹を見る冬真の頬を、舞い落ちた雪の結晶が撫でる。冬真はそれを掌に受け取ると、指先で磨り潰した。
「お前本当に日本に居たのか? 除夜の鐘ってのは、人間の百八の煩悩を消してくれるそうだ。本当に百八回も鳴ってるか知らないけどな」
春樹は煙草を揉み消し、重く澄んだ鐘の音に耳を澄ます。
本当に煩悩を除去してくれるのならば、全身に渦巻く淫らな欲もその鐘の音に溶かしてくれないだろうか。
そんな事を考えながらなんとなく回数を数えていた。しかし鐘も耐えず突くわけでもないようで、次を待つ時間がもどかしく思え、十も数えないうちに投げ出した。
「百八回以上鳴ってるとこもあるよ。オレ数えた事あるもん」
「そりゃ、随分暇だな」
「うん、暇だったからね」
小さく笑い冬真を見ると、薄く体に雪が積もっている。頭や肩に積もった雪を払ってやろうと触れてみれば、春樹の冷えた掌でも雪はすぐに溶けて服を濡らした。
そう言えば、今しがた冬真は雪を指で磨り潰していた。体に積もった雪も、春樹の方が先に降られていたのに、冬真にだけ積もっていた。試しに手を握ってみると、相変わらず冷たいものの、雪が溶ける程の温かさはある。
「なに? 握手?」
「いや、別に。そろそろ戻るか。すっかり冷えちまった」
はにかむ冬真の手を離し、先に中に入らせた。
冬真と過ごす時間が増えると、その分疑問も増していく。
どこから来たのか。何故来たのか。生い立ちは。生活は。趣味は。友人は。恋人は。春樹の知るほんの僅かな部分だけでなく、もっと深く、冬真と言う人間そのものを、冬真を取り巻くものを、形作ったものを、全部知りたい。
春樹らしからぬその感情も、淡くぼやけさせたまま、燻る靄と共に心の深くに押し込むのだった。
夕食で既に腹一杯だったが、年越し蕎麦を残すと夏子にこっぴどく叱られる為、春樹は満杯になった胃に蕎麦を押し込んだ。因みに冬真は出汁が真っ赤になる程一味を掛けていた。
暫くは満腹で動けそうもない。
冬真は年越しを楽しみにしていたが、蕎麦を平らげ、睡魔に勝てずに寝てしまった。ちゃんと一人で眠れているだろうかと、春樹は小さく息をついた。
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