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ⅳ ⑥

 そろそろゆく年くる年が始まる時間だと、今までしんと真っ暗に沈黙していたテレビをつけようとリモコンに伸ばした手に、夏子の手が重なる。  何やら真剣な表情でゆるゆる首を振り、無言でテレビはつけてくれるなと。  見れば隣の千秋も神妙な顔で春樹を見ている。 「年が明けないうちに話しておこうと思うんだけど。冬真君が寝てくれて助かったわ」  低く声を落とした夏子に、春樹も思わず姿勢をただす。 「本当は何も知らせずにおこうと思ったんだけど、話しておいた方があんたもこの先色々考えずに済むでしょ」  言って夏子は細い指輪を左薬指に嵌めた。春樹に内緒で結婚でもしたのだろうか。先に言ってくれれば祝いの一つでもしたのに。  しかしそれにしては相手の影が無い。 「これを聞いて私を嫌いになってもいいけど、私はあんたを愛してるから。母親として」 「勿体ぶらずに早く話して下さいよ」  モザイクでぼかすようになかなか本題に入らない夏子に少し苛つく。  もう後少しで年が明けてしまう。  どんな話であれ、夏子を嫌いになどならないに決まっている。春樹を育て、愛情をくれた。何を聞かされてもそれだけは揺るがない。  夏子は一つ深呼吸をし、真っ直ぐに春樹を見た。 「私と千秋、今一緒に住んでるの。三年位になるかな」 「へぇ? その歳にもなって友達と?」  仕事柄人付き合いの多い夏子だが、そこまで仲の良い友人が居るとは知らなかった。  と微笑んだ春樹の表情は、後に続いた言葉で固まってしまう。 「そうじゃなくて、同棲してんの」 「は?」 「付き合って5年になる。恋人としてね。結婚は出来ないけど、一生寄り添って行くつもり」  真剣な瞳で春樹の目を見たまま、夏子は優しげに笑みを浮かべる。  窓を閉めているのに、僅かな沈黙の隙間に、今年最後の鐘の音が聞こえた。  最初はただの客と営業員の関係だった。次第に仲良くなり、プライベートで友人として距離を縮めていった。気が付けば夏子にとって千秋はかけがえのない存在になっていて、それが友情ではなく愛情だと気付いたのは、初めて千秋が泊まりに来た時。  胸は高鳴りがやまず、高揚し落ち着かない。触れたい、抱き締めたい、総てを自分のものにしたい。  それは生まれて初めて抱く恋心だった。  結婚も男も興味がなかったのはそう言う事だったのかと、妙に納得してしまった。  千秋も独身で親との縁も薄く、二人を阻むものは何もなかった。 「この先も独りで、死ぬときはあんたが看取ってくれればいいと思ってたけど、パートナーって良いもんよ。そんなわけだから、私の老後の心配はしなくていいから。年金もたんまりあるし」  思考がリセットしてしまった春樹は、鳩が豆鉄砲食らったような顔で二人を交互に見た。  正直夏子がどんな人間と一緒になろうが然程興味はなかった。しかしそれが同性となると話は別だ。どう反応していいかわからない。  再稼働し出した頭は、様々な情報が溢れて春樹を混乱させた。  老後に夏子が誰かと過ごすのは確かに悪くない。さしもの春樹も年老いた育ての親を一人放っておく事は出来ないだろう。  夏子が千秋と居る事で幸せならそれでいい。元々GLBTに偏見はないし、と言うよりあまり興味もなかったし、反対する話ではない。  じゃあ何故、言葉は詰まって出てこないのか。  ぴくりとも動かない春樹に、夏子は静かに言った。 「ねぇ、冬真君はあんたにとって本当にただの友達なの? こんな話したから言うわけじゃないけど、私にはあんたが、冬真君を特別に思ってるように感じる。今回私がこんな話したのは、あんたにもやっぱり、生涯のパートナーを見つけてほしいからよ。この歳まで独身でいたけど、それでもあんたが居たから頑張れたんだよ。本当に独りじゃ、どうなったかわかんない」 「……そんな事」 「春樹。自分の心に正直になりなさい。平穏じゃなくて、幸せを考えなさい。幸せが何なのか、一度きちんと、考えて」  春樹はやっぱり何も言えず、俯く事しか出来なかった。  そう、いつも自分が優先するのは平穏で、だからこそ地方公務員になった。  日々同じ事を繰り返し、争いもせず、怒りも哀しみもなく。小さな幸福感と満足感だけがあればいいと。平穏は幸せなのだと。  話すだけ話してさっさ休んでしまった夏子の目を忍び、春樹はベランダの灰皿を客間──元は自室に持ち込んだ。  春樹が黙って何も言わなくなってしまったのだから、眉尻を下げて寝室に引っ込んだ二人に文句は言えない。  スマートフォンのライトを頼りに枕元に灰皿を置けば、脱ぎ捨てていたコートを肩に掛け下半身を布団に滑り込ませる。起毛のカバーを掛けているとは言え、真冬の布団は芯から冷える。自分の体温で温まるまでの辛抱だ。  暗闇の中煙草に火をつければ僅かに辺りが見渡せた。ふとすぐ横の布団が騒がしくなり、起こしてしまったかと見えもしないのに目をやれば、春樹の体温に誘われるように冬真の手が伸びる。 「春、夏子さんと話せた?」 「何だ、起きてたのか」  伸びた手はすっかり冷えきって、握った春樹の手までも冷やしていく。 「さっき目が覚めたんだよ。ね、どんな話した?」  春樹は答えず深く煙草を吸い込む。  隣からは静かな息遣いしか聞こえず、答えを求めない質問は空白に溶ける。  煙草を揉み消すと、春樹の手を握っていた手が引っ込む。春樹はコートを隅に投げ、布団に潜り込んで肩まで毛布を引っ張り掛ける。息遣いしか聞こえない冬真が寝ているだろう空間にそろりと手を伸ばせば、柔らかな白銀に触れた。  春樹の平穏は白い青年に乱され、侵入され、別の物を与えた。 「なぁ冬真……何で俺に声掛けたんだ?」  騒がしい日常、自分以外の笑顔、声、温度──体温は低いが。誰かが側に居ることで、世界はこんなにも変わってしまうなんて、これっぽっちも、知らなかった。 「……さぁ、何でだろうね」  冬真、お前を好きだと言ったら、総てが欲しいと言ったら、お前は俺の前から居なくなってしまうだろうか。  夏子の言う俺の幸せが、お前も幸せにするとは限らないだろう。  夏子の告白を聞いて、自覚させられてしまった。  大の男が、ただの家出青年に特別な、いや、それ以上の感情を抱いているなど、どこかで否定していた。何かの間違い。西島に言われその気なってしまっただけだと。  真っ白になった頭にぽつんと残ったのは、夏子と同じものだった。  触れたい、抱き締めたい、総てが欲しい。 「ね、春、そっち行っていい?」 「自分の布団があるだろう」  言いながらも布団を開けてやると、するりと入ってきて、春樹の胸に頬を擦り寄せ満足気に息をついた。

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