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ⅴ ①
「明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう。なぁに、酷い顔ね」
キッチンに立つ夏子に新年の挨拶をした春樹を見るなり、夏子は顔をしかめた。
洗面に立てば、無精髭に髪はボサボサ、おまけに酷い隈で目が落ち窪んで見える。それもそのはず、夕べ春樹はろくに眠れなかったのだ。
冬真への想いを自覚してしまうと、毎晩ベッドが狭いぐらいにしか思っていなかった睡眠が拷問になってしまった。安心しきった寝息、ぴたりと寄せた冷たい体、白銀から漂うシャンプーの匂い。
本能との戦いがこんなに辛いものだとは露とも知らず。
そう言えばその冬真はどこに行ったろう?
「冬真君なら外だよ。ああ、上着も着ないで出たみたいだからあんたコート持ってってあげて」
窓に目をやれば外は雪景色。
暑がりの冬真の事、暖かいこの部屋の温度に耐えきれなくなり逃げ出したのだろう。
一応着替えて煙草と財布を掴んで外に出たが、見える範囲に居ない。仕方なくコートの襟を掻き寄せ春樹はエレベーターに向かった。
エントランスに降りると、オートロックの自動ドアの向こうでウロウロ怪しい動きをしている白い人物。どうやら外に出たはいいものの入り方が分からないようだ。
エレベーターを降りた春樹を見つけた冬真は、顔を綻ばせ自動ドアに張り付く。
……可愛い。
自動ドアを開けるなり急いで入ってきた冬真の手を引き、春樹は外に出た。
車も人通りも殆ど無く、白い空と足跡が残る程度に積もる雪に包まれた街。しんと静かで昔から知っている街並なのに、どこか眩しく産まれたばかりのような新鮮さを感じる。
吹雪く年もあるが、今年はしんしんと足音までも吸い取ってしまいそうな程静かな気候だ。
「どこ行くの?」
離すタイミングを失くした手は繋いだままで春樹は黙々と歩く。
どうしたものか、繋いだ手にばかり意識が集中してしまい冬真の声が届かない。
「春、春ってば!」
「あ? ああ、何だっけ?」
繋いだ手を振り回されようやく気付く。タイミングを見つけた春樹は離した手をサッとポケットに突っ込んだ。
「どこ行くのって聞いてるの」
冬真は春樹の顔を覗き込み唇を尖らせる。
どうして仕草の一つ一つがいちいち可愛く見えるのか。どうやら相当重症らしい。
「ついでに煙草でも買おうと思って出てきたんだけど」
考えてみれば、煙草は電車に乗る前にカートンを一箱買ったのだった。
わざわざ着替えて出て来た手前すぐに帰るのも癪で、春樹は足の向くままただただ歩いた。この辺りは初めての冬真は、黙々と歩き続ける春樹に着いて興味津々に右に左にちょろちょろ落ち着きがない。
ふと、人気のない街並みに不釣り合いな程密集した人だかりを見付けて春樹の手を引いた。
「ね、ね、春。あそこ何?凄い人」
春樹は冬真の視線の先に目をやり、うんざりと溜め息を吐いた。そこは、前の彼女がしきりに詣りたがっていた神社。巷では有名で、毎年この時期は人手が切れない。
「神社だよ。皆初詣に来てるんだろ。初詣ってのは今年一年の幸せとかを願うお詣りの事だ」
また冬真に質問されるより先に、さっさと答えを言った。案の定初詣が何か分からなかったらしい冬真はしきりに首を振って感心している。
「春、オレ達も初詣しようよ」
「お前な。ここ縁結びだぞ。どうせ行くなら違うとこにしろよ」
「縁結び?」
春樹の手を引いたまま、冬真はキョトンと丸い瞳を向ける。
ああ、無知とは時に残酷だ。
「……カップルがお詣りする神社だよ。恋人達が別れないように願うところだ。俺達には関係ない」
「それって、絶対男と女じゃなきゃ駄目なわけ?」
「え。別に、駄目ってこたないだろうけど……」
「じゃあいいじゃん! 行こうよ春!」
と、冬真は満面の笑みで春樹の手をぐいぐい引っ張る。いまいち意味が伝わらなかったのか、冬真はピンク色の空気を纏ったカップルの群れに入って行く事になんら躊躇がない。
「よせって! カップルだって言っただろ! 初詣なら違うところに連れて行ってやるから!」
「やだ! ここが良い!」
「どこでも一緒だろ!」
「じゃあいいじゃんここでも! オレは春と縁結びしたいのー!」
瞬間、境内から溢れていたカップル達の視線がサッと二人に集中する。力を抜いた冬真を連れ、春樹は慌ててその場を離れた。
人目を気にしながら路地に入り込み、未だ口を閉じない冬真を壁に追い込み片手で口を塞ぐ。
「お前っ、意味分かって言ってんのか!」
「むぐ……だって縁結びって仲良くなるって意味じゃないの?」
「……はぁ。そうだな、お前世間知らずだったな……」
項垂れる春樹を見て大人しくなった冬真の口から手を放し、溢れた疲れに壁に両手を付く。春樹は項垂れたままぼそぼそともう一度縁結びやカップルについて詳しく説明してやる。
「じゃあやっぱり男と女じゃなきゃ駄目なんだ」
春樹の説明を黙って聞いていた冬真は、唇を尖らせつまらなさそうに呟いた。
「いや、だから必ずしも異性同士じゃないと駄目ってわけでもなくて、時と場合ってもんが……そんなに行きたいのか? あそこに」
「うん」
かつては恋人がどんなにごねようとも決して春樹の心が動く事は無かったのに、腕の間で俯き眉尻を下げる冬真に、春樹は小さく溜め息を吐いた。
「……別の機会に連れて行ってやるから、今回は別のとこで我慢してくれ」
「分かった! 約束だよ!」
「本当お前ってヤツは……」
ぱっと満面の笑みで顔を上げた冬真と目が合い、春樹は今の状況に改めて気付かされた。冬真が駄々を捏ねて動き回る事を避ける為の行動だったとは言え、落ち着いてみれば今の状況は結構、まずいかもしれない。
春樹が囲った腕の間で瞳をきらきらと輝かせる冬真。見上げた顔と顔は思いの外近く、冬真がもう少し背伸びをすればお互いの鼻先が触れ合う距離。
春樹はぐるりと顔を背けたが、冬真を囲う手は壁から離せずにいる。
「春? どうしたの?」
「いや……そう、初詣行こう。別の神社に」
「うん?」
固まってしまった関節をぎしぎし動かし、やっと冬真を解放した。キョトンと春樹を見上げたまま動かない冬真の手を再び取れば、冷たかった手がほんのり暖かい。
人気のない道をそのまま歩けば、早足で歩く春樹に手を引かれた冬真が小走りについてくる。
ああ、もう、今すぐにでもその冷たい体を抱き締めたい。自分の体温で冬真の体を満たす事が出来たら、どんなに幸せだろう。
「そうか」
急に足を止めた春樹に体ごとぶつかった冬真が、訝しげに見上げる。
そうか、これが「好き」ってやつか。
胸の奥から止めどなく溢れる感情。理性で抑え込むこともままならない程に多くの錯綜はしかし、決して嫌なものではなく、何故か緩やかに穏やかなもので。
支配欲と守護欲で相反する混沌もまた、これ以上にない程春樹の渇いた心を満たして行く。
これまで何となく恋愛をしてきた春樹は自分の「好き」と言う感情は落ち着いているものだと思っていた。そうではなく、ただ人を本気で好きになった事がないだけだったのだ。
「少し歩いた所に、小さいけど俺が昔毎年初詣に行ってた神社がある。そこに寄って帰ろう」
「うん! えへへ、初めての初詣が春と一緒で嬉しいな」
今はただこの笑顔が嬉しくて、愛おしくて。
その無邪気な台詞に翻弄される事さえ、暖かなもので満たされる自分の心に、春樹は戸惑いさえ覚えた。
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