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ⅴ ②

「あら、可愛い根付けね、冬真君」 「そうでしょ! 春が買ってくれたんだー。そうだ、この携帯も財布も、服も春が買ってくれたんだよ」  リビングでにこにこと千秋に自慢する冬真を遠目に、キッチンで黙々とおせちを重箱に詰める春樹に夏子はニヤリと笑う。 「へー……ケチなあんたが他人に物をねぇ。神社も大嫌いだったのに、初詣まで行ったんだー」  ゲストを手伝わせるわけには行かないと、夕べさんざん冬真をこき使っておきながら春樹をキッチンに呼び寄せた夏子は、自分は手を止め組んだ腕をふらふら揺らす。 「……何が言いたいんです」 「いや? 私の勘もまだ鈍ってなかったんだね」  重箱に蓋をして屠蘇器を洗っていた春樹は、小さく息を吐いて静かに言った。 「千秋さんとの事、良いと思います。結局俺は……夏子さんが幸せならそれで良いんだし」 「なかなか泣かせる事言えるようになったじゃない」 「何を。俺は昔から夏子さんには感謝してますよ……母親として」  これが今の春樹に言える精一杯だった。  返事をしない夏子をチラリと見やれば、エプロンで目頭を押さえている。 「あんたがそんな事言うなんて……冬真君に唆されたんでしょ」 「唆されたって……」  春樹は苦笑し、綺麗に浄めた屠蘇器を並べる。  思えばこの作業も、この家に来てからは正月の恒例だった。春樹の記憶にかすかに残る母親は、こう言う格式ばった決め事に無関心だった。それとは反対に夏子は正月を大事にしていて、初詣もお屠蘇もおせちも、もっと言えば行く年来る年も、夏子に引き取られて全てが初めての事だった。  折角綺麗にしている化粧が落ちてしまった夏子に、春樹は直して来るよう薦めた。 「確かにあいつの影響は大きいかも……今はまだ呼べないけど、俺は夏子さんの事……母親だと思ってますよ」 「あんた化粧直せって言っといて、どんだけ私を泣かせれば気が済むの」  号泣する夏子を彼女の寝室に押し込み、夏子が夕べから浸けていた屠蘇散を酒から取り出しながら、春樹は妙に晴れた胸をさすった。  完全に消えたとは言えないものの、例の靄が心を暗鬱に浸さない。春樹の顔色を盗み見るように隠れた靄は、そのまま姿を見せなかった。  こんな事は初めてで、夏子ではないが幸先の良い年明けに多少、春樹の気持ちも弾むのだった。  今はまだそれが自分の心次第だと気付かなくても。  さて、化粧は綺麗に直したものの赤い目で夏子がリビングに戻った時にはもう支度が済んでいた。心配気に眉尻を下げる千秋に気にするなと微笑んで、夏子は椅子を引いた。  一同は改めて新年の挨拶を交わし、初めての正月作法に戸惑う冬真は困惑しながらも楽しそうに顔を綻ばせる。  あれは何だこれは何の意味だと逐一尋ねる冬真に、春樹は嫌な顔一つせず丁寧に教えてやった。春樹の知識は全て夏子からの受け売りで、それを本人の前で披露するのが少し照れ臭かったが、ちらりと見た夏子は優しげに見守っていた。  やがて酒も進んで来ると顔を真っ赤にさせた夏子が「歳には勝てない」と寝室に引っ込んでしまった。 「今日は夏子、様子が変ね」  酒に強い夏子は一人で平気で日本酒一升空けてしまう。そんな彼女が今日は僅か二、三合で音を上げてしまったもんだから千秋はそわそわと夏子を追って寝室に消えた。 「春、夏子さん大丈夫?」 「ああ、大体察しはつく」  春樹の言葉に涙するほど喜んだ夏子は、その感情が追いつかないのだろう。  そんなに嬉しいのなら、もっと早くに自分の気持ちを伝えてやれば良かったかなと、意地になっていた若い自分に春樹は自嘲する。 「そういやお前は今日は潰れないんだな」  猪口でちびちび酒を舐めている冬真。何だかんだでもう結構飲んでいるのに、顔付きはしっかりしている。 「朝の散歩がよかったのかな? いい感じに体が冷えてるからあんまり酔わないね」 「なんだそりゃ」  テレビもつけず騒がしい夏子も寝てしまい、リビングはしんと静まりかえる。時折夏子らの寝室から微かに千秋の声が聞こえていたが、やがてそれもなくなり、どうやら二人とも眠ってしまったらしい。  外は相変わらずしんしんと雪が降り、ガラスが雲ってぼやけた景色が外との気温差の大きさを物語っている。エアコンと床暖房が効いた部屋は上着がいらない程に暖かく、冬真はよくこれに耐えているものだと関心した。 「本当お前の体って変だよな」 「そうかな、ただの暑がりだよ」  春樹をちらりと見て冬真はまた酒を舐める。 「……まだ、話せないか? お前自身の事」 「話したじゃん、色々」  冬真の言う色々は昨日夏子と話した事を指しているが、それで冬真の総てが分かったとは言えない。  春樹は夏子が眠った事をこれ幸いに、客間に置いていた灰皿をリビングに持ち込んだ。後々煙草臭いと怒られるだろうが、大した問題じゃない。元々夏子だって愛煙家で家中お構いなしに吸っていたのだ。 「あれ、ほとんど嘘だろ。肝心な事は何も話してないんじゃないか」 「分かっちゃった? だって本当の事なんて話せないよ」 「俺にも話せないか?」  猪口の酒を見たまま呟いた春樹に、冬真は目を丸くさせた。  この質問は何度となく繰り返し、その度冬真がはぐらかすか、春樹も深追いする事はなかった。けれど今は、どうしても冬真を知りたい欲求が春樹の心を埋め尽くしている。春樹は煙草を揉み消して酒を一息に飲んだ。 「知りたいんだ、お前の……冬真の事。ちゃんと」 「……何で? 何でそんなに知りたがるの? いきなり押し掛けてきた変な居候の事なんて。春には関係ない事なんでしょ?」  少し声を落とした冬真の瞳が、灰色の影で曇る。 「前は関係ないと思ってた。けど今は知りたい」 「ごめん……話せない。春には話せない」 「そっか……そりゃそうだよな、俺はただの居候宅の家主ってだけだ。そこまで話す義理はねぇよな」 「違う、そうじゃなくて」 「無理すんなよ、もう聞かないから。一眠りするわ」  乱暴に立ち上がった春樹を止める手は空を切り、リビングには冬真だけ取り残された。  冬真は春樹の消えた客間のドアを見詰め、溜め息を吐いて窓の外に視線を移した。窓を開けると空は更に灰色が濃く、心なしか舞う雪も増えたようだ。ベランダに出た冬真は顔に掛かる雪も意に介さず空を仰ぐ。 「ああ、帰りたくないなぁ」  出会った時より近付いた二人の距離。それも近頃は急速に。  このままずっと、春樹の家に居れたら。真実なんか忘れて、ふわふわと夢心地のままずっと、ずっと、冬が続けばいいのに。  俯いて掌に受けた雪が、冷たい水滴にかわってすぐにまた氷に戻る。  まだ雪は降り続くのに、春はもうすぐそこまでやって来ている。  後どれくらいここに居られるだろうか。  一層量を増した雪は白い冬真を覆い尽くし、体に積もった雪は次々溶けては氷にかわる。冬真は暫くただそこで凍りつきそうな程佇み、雪がさらさらと肌を撫でる程体が冷えた頃、氷を払い落とし室内に戻った。

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