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ⅴ ③

 一眠りが本寝になっていたらしく、昼過ぎに寝た春樹が目を覚ますと夕食の時間になっていた。  夕食と言ってもやはりおせちだから朝とさしてメニューは変わらない。簡単に片付け食卓を整え直した夏子が既に一升瓶を半分空けていた。  上機嫌に手を降る夏子に軽く手を上げ、春樹は風呂に入った。妙な時間に熟睡したせいか体がだるく、頭もスッキリしない。  熱い湯船に浸かれば少しは体が軽くなったようで、気分も良くなった。  リビングに戻った春樹はそういえば、冬真の姿が見えない事に首を傾げる。 「夏子さん、冬真は?」 「え、居ない? てっきりあんたと一緒だと思ってたんだけど」  見れば玄関には靴がない。  また外に出て入れなくなってるんじゃないだろうな。  スマートフォンは持っていっていたようで電話を掛けるとすぐに澄んだ声が聞こえてきた。迎えに行くかと聞いたが返ってきたのはノーだった。 『ちょっと今職場に電話してるから。すぐ戻るから大丈夫だよ』  仕方なく春樹は戻ったら電話を入れるように伝え、スマートフォンをポケットに押し込んだ。  冷蔵庫から勝手にビールを拝借し、一本は一息に飲み干す。もう一本片手にリビングの椅子に座れば夏子がにやにやして春樹を見やる。 「フラれたんだ」 「何ですか、それ。縁起でもない」 「あ、認めるんだ。冬真君が好きって」 「この酔っ払いめ」  二人のやり取りを見ていた千秋が夏子を指でつつく。夏子はにかっと笑い「この子やっぱり冬真君が好きなんだって」と本人に聞こえているのに耳打つ。途端千秋は生き生きと頬を上気させ手を合わせる。 「本当に!? さすが夏子の息子ね。それで二人はどこまで行ってるの?」  女性が恋の話に貪欲なのはいくら年齢を重ねても変わらないようで、千秋はどこぞの女子学生のように目をきらきら輝かせている。 「どこまでも何も、まだ付き合ってもいませんよ。夕べ気付いたんですから」 「あらあら、そこも夏子と一緒なのね。夏子も随分掛かったのよ」  くすくす柔らかく笑う千秋に、夏子が余計な事をと小突く。僅かに頬を染め照れ臭そうに唇を尖らせる夏子は女の顔で、初めて見るその表情に春樹は少し戸惑いを感じた。  ああ、本当に千秋の事が好きなのだ、と。  上機嫌の千秋に根掘り葉掘り春樹や冬真の事を聞かれ、春樹は当たり障りのない範囲で答えていた。何故冬真への気持ちに気付いたかと問われれば、夏子のせいだと。 「ちょっと、そこは「おかげ」でしょ?」 「せい、ですよ。夏子さんがああ言わなけりゃ気付かずに済んだかも知れないでしょう」  とは言え近頃の自分の心境や言動を考えれば、それも時間の問題だったかも知れない。しかし自ら被せていた殻を取り去るきっかけになったのは、間違いなく夏子と千秋の関係を目の当たりにしたからだ。 「淋しい言い方するのね。春樹君は気付きたくなかったの?」  気付いたところでどうしようもない。  冬真がどこから来たのか知らないが、いずれは家に帰り、今の関係が終わってしまえばお互いいつもの日常に戻る。そうなれば冬真は春樹の事を忘れてしまうかも知れないし、そうでなくとも日常は春樹の存在を霞ませていくだろう。  春樹も冬真と離れてしまえば、まだ自分の感情を殻で覆ったまま、気の迷いだと絶ち切れたかも知れない。  いつ、冬真が帰るかはわからないが、下手にかき回して冬真が出ていってしまう事は避けたい。  だから、気持ちは形を成さないままいずれ消えてしまう事を願っていた。 「それじゃ、冬真君には何も言わないつもり?」 「当たり前じゃないですか」 「私は千秋にちゃんと言ったよ」 「それじゃあ聞きますけど、夏子さんは千秋さんが異性愛者だと思って告白したんですか?」  夏子は千秋を見た後少し瞳を伏せ、言い難そうに声を落とした。 「……私は、千秋からレズビアンだって事前に聞いてた」  一度、何故結婚しないのかと訊ねた事がある。その時千秋は自分は同姓愛者だから結婚は出来ないと答えた。初めて千秋が泊まりに来た日だった。 「そう言う前提でもない限り告白なんて出来ませんよ。良くてごめんなさい、悪くて気持ち悪い」 「けど、冬真君だってあんたを好いてるように見えるけど」 「それは友人としててでしょう」  たった一言で良好な関係は崩壊してしまう。春樹は「もしかしたら」など楽観的な考えは持てない。今まで消極的に生きてきたのだから、これからもそうやって過ごして行けば良い。  今、冬真と一緒に暮らしている。側で笑顔を見ていられる。それだけで充分幸せだと思う。だから、それ以上は望まない。  春樹が二人の憐れみに似た視線から逃げるように窓の外に目を向けると同時に、ポケットから味気ない着信音。 「この話はもう終わりです。冬真を迎えに行きます」  すっかりぬるくなってしまったビールを飲み干し、春樹はリビングを出た。背中にぼそぼそと話す声が届いたが、聞こえなかった事にしてエントランスに急いだ。  自動ドアの向こうでは、今度は大人しく待っている冬真。エレベーターから出てきた春樹を認めて手を振っている。  別にわざわざ迎えに来ずとも、インターホンの使い方を教えれば手間も掛からないが、春樹は冬真を口実に二人の質問攻めから逃げ出したかった。 「また何か問題でも起きたのか?」 「ううん、ちょっと上司と話してた。休暇延ばせないかって」  エレベーターの中、壁に背を預けていた春樹はどきりと背を浮かす。そんな話が出るほど、もう冬真の休暇は長くないのか。 「まだ先だけどね、休暇が終わるの」 「延ばせたのか?」 「駄目だった。どうしても無理だってさ」  流れる階表示を見ながら、冬真は溜め息を落とした。 「分かってたから駄目元で聞いてみたんだけど、それでもちょっとショック」 「何でそうまでして休暇延ばしたかったんだ?」  折角の長期休暇もどこかへ出掛けるでもなし、親元へ帰るでもなく、ただ春樹の家に居候して家事に明け暮れる日々。いい加減で飽きてもよさそうなのに、更に休暇を延ばしたがるとは。 「そりゃ、春と居るのが楽しいからだよ。だからまだ長く居たくて……あ! 春が迷惑じゃないなら」 「……何今更遠慮してんだ。言っただろ、好きなだけ居たら良いって」  エレベーターを先に降り、春樹は冬真を見ずに呟いて早足で夏子の部屋に向かった。背後で冬真が嬉しそうに跳ねながら着いてきているが、とても振り向けない。  玄関をくぐり夏子に声も掛けず洗面に直行すれば、鏡にはやはり真っ赤になって頬の緩んだ自分の顔。  今冬真と目が会えば、何をしでかすか分からない自分を理性で押さえ込む自信はない。  たった、たった一言でこんなに舞い上がってしまうなんて、情けない。もっと気を引き締めなければ。春樹は深呼吸して顔を洗い、心配気に廊下で待っていた冬真に、何でもないと頭を撫でた。  それからは夏子と千秋は春樹の嫌がるその話題には触れず、それぞれは緩みきった正月を送った。駅伝を観ながら酒を飲み、腹が減ればおせちを摘まみ、眠気が忍び寄ればうとうと眠った。きちんと正月らしい事をするのは元日だけで、大晦日に浄化したはずの煩悩も僅か一晩明ければすぐに戻ってくる。二日も過ぎれば正月気分を切り替えるのに必死だ。  春樹にとって以前は長く無駄なものに思えていた正月休みも、今年はあっと言う間に過ぎた。久々の里帰りだったからか、それとも冬真が一緒だったからか。ともかく明日からは通常業務。今日中には自宅に帰らねばならない。

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