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ⅴ ⑤
「また、来年も二人でおいで」
エントランスで見送る夏子の台詞に、春樹は曖昧に首を斜めに傾げた。ちらりと冬真を見れば、淋しそうに影を落とした灰色の瞳。夏子の台詞に返事もしないまま、春樹と同じように首を傾げて微笑んでいた。
またここに帰って来たいと思う。
しかし来年も再来年も、同じ正月はきっと来ない。来年は果たして、春樹一人か、それとも隣に誰か寄り添っているだろうか。その誰かがこの白銀の青年であって欲しいと思うも、冬真の淋しげな笑顔に、そんな正月は二度と来ないような気がした。
「結局飲んだだけで終わったな。疲れただろ」
「ううん、楽しかったよ。春のお母さんにも会えたし」
「……まぁ、もう母親でいいか」
「お母さんって呼んであげた?」
「まだそこまでは無理だったな」
あれほど春樹の心を暗く覆っていた忌々しい靄はすっかり鳴りを潜めたらしい。春樹の見えないどこかで様子を伺っているように感じる。暫くはじっとしている腹積もりのようだ。
「そのうちちゃんと呼んであげなよ」
「そのうちな。けど母親だと思ってる事伝えただけで号泣してたんだ、いざその時が来たらどうなる事やら」
午前中の混まない時間を選んで乗った電車は座れる程度には空いていて、隣に座った冬真の小さな笑い声を聞き取ることが出来た。
春樹は「また行こう」と喉元で詰まらせていたが、冬真の口から未来をほのめかす単語はついに出て来ず、春樹は言葉を飲み込んだ。
「いつか帰る」この事実が、鳴りを潜めた靄の代わりとでも言うように、春樹の心にひやりとしたものを落としていた。
春樹の住むアパートは殆どの住人が里帰り中でまだ帰っていないらしく、駐車場もがらんとしている。いつもはベランダに連なる洗濯物も無くしんと静かだった。
三日振りに玄関を開けると、乾いた生活臭が鼻をつく。思えばこの部屋に住んでから十と数年、こんなに長く空けていたのは初めてかも知れない。春樹は荷物を居間に放って開く窓を全て開け放した。普段は鼻を掠めもしない煙草の臭いが一番強く、部屋中に染み付き生活臭と混ざったそれは酷い臭いだ。冷たい風に思わず身震いしたが、この臭いを耐えるよりはましだ。
しかしそんな臭いに胸を悪くしても、体はニコチンを欲しがる。早速この部屋を新鮮な煙草の臭いで満たしてやろうかと、ポケットから煙草を取り出しながら居間に戻ると、冬真が床で早速荷物の整理をしていた。
「少しはゆっくりしろよ、帰ってきたばっかだろ」
「何か落ち着かなくて。折角早く着いたから洗濯物くらいしとこうかなと」
「完全に主婦だな」
いや、男だから主夫か? まてまて、そもそも夫婦に例える事からおかしい。
「あ、夏子さんからお土産いっぱい貰ったんだよ。何か肉とか野菜とか調味料とかインスタントものとか……全部こっちですぐに買えちゃうのに、おかしいね」
出掛けに冬真が夏子から渡されていた大きな鞄の中身は土産だったのか。
冬真は広げた中身をそれぞれ確認してから、所定の場所にしまいこむ。
「……母親ってのはそう言うもんなんだろ」
夏子の家を出たばかりの頃も、こんな風に──もっとも当時は鞄ではなく段ボールだったが。詰め込まれて送られてくる日用品やら食料品に辟易したものだ。当時はお節介にしか思えなくて送り返していた事を、申し訳なく思う。母親は、全身から溢れる思いを口には出さず、まるごと段ボールに詰めて子供に送っているのだ。日用品や食料品などの、決して邪魔にもゴミにもならないものに代えて。今となってはそれが夏子の、母親の愛そのもののように思う。
こうして夏子の母親としての愛情を素直に受け入れる事が出来るようになったのも……
「冬真……一息ついたら昼飯にするか」
「そうだね、お腹空いたね! 何にする? 夏子さんのとこじゃおせちばっかだったから、思いっきり辛いのが食べたいなぁ」
「……それは夜にとっとけよ」
結局冬真リクエストの辛いものは却下し、二人は近所のラーメン屋で昼を済ませた。ラーメンの熱気に少しあてられたらしい冬真は食べ終えてからぐったりとしていたが、店を出た時降りだした雪に体を冷やし上機嫌にはしゃぎ回っていた。
ついでに年末片付けてすっからかんになっていた冷蔵庫の中身を買う為、いつかのデパートに寄って帰る事にした。
「晩御飯何にする?」
「そうだなぁ……今腹一杯だから何も思い付かないけど」
満腹の胃袋と相談してみても、今は何もいらないの一点張り。
「カレーにするか。おせち続きだから単純なものが食いたい」
くれぐれも辛さは程々にしろと、ルウのある棚に向かったが、途中に目についた特設コーナーにその必要もなくなった。
昼のラーメンといいカレーといい、正月明けの人々の心理は似通っているらしく、特設コーナーに山積みされたカレールウに人だかりができている。
「激辛ないかな、激辛!」
「冬真! 俺の話聞いて……ないな」
止める春樹の手をするりと抜けて、冬真は激辛ルウを求めて棚の裏側へ行ってしまった。いつぞやの激辛カレーの味を思い出しため息を吐いた春樹の目に、良く知った背中が見えた。
「西島?」
春樹の声に振り向いた西島は、仕事納めに見た時より幾分やつれているように見えた。
「近藤さん! 明けましておめでとうございます。奇遇ですね」
「明けましておめでとうございます。お前こそ珍しいな、家反対側だろ?」
春樹のアパートと西島の家は、駅を挟んで両極の位置関係。春樹の近所のデパートに西島が来ることは無いに等しい。わざわざ駅前の大通りを渡ってここまで来るより、駅ビルで済ませた方が早いからだ。
「いや、さっきこっちに帰って来たんですよ。車じゃ駅よりここの方が楽ですから」
「ああ、駅ビルじゃ駐車場ないもんな。それじゃ奥さんも一緒か?」
先輩として奥さんにも挨拶さておきたいと、春樹はキョロキョロ辺りを見渡した。
「近藤さん、僕一人です。妻は実家に置いて来ました」
何でも初めての出産で不安が強いらしく、近頃の体調不良もその辺りの影響が大きいらしい。医者にも勧められ、本人も希望している事から里帰り出産をするとの事。奥さんの実家への挨拶ついでに残してきたそうだ。
それにしても西島のやつれようは、単に正月飲み過ぎただけでにしては酷い。話しぶりからするとこの正月は奥さんの実家で世話になっていたようで、その気疲れだろうか。
「そうなんですよ……まぁ色々あって、妻の親とは不仲なもんで」
交流はあるようだからあからさまに不仲ではないのだろうが、見えない嫌悪を常に浴びせられるのは酷だろう。虫食いのように心身を蝕んでいくのだろう。かつての恋人の両親に会った事もない春樹には想像しかできない。
西島はこれ以上惨めな三箇日に触れて欲しくないのか、それとも思い出して自ら傷に塩を塗るのが嫌なのか、目線を泳がせて話題を変えた。
「近藤さんのとこもカレーですか? やっぱおせちに飽きたらカレーっすよね」
見れば西島の持つかごにもカレーの材料が一式入っている。春樹が同意に口を開いた時、背後から冬真の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「春~! 激辛あったよ! 後は唐辛子とハバネロパウダー買わなきゃ!」
瞬間、春樹はぎくりと体を強張らせた。ハバネロと聞いて前回より辛いカレーを想像したからではなく、今ここに、冬真と二人で買い物中に西島が居るという事。西島は二人が付き合っていると思い込んでいる。うっかり何を言い出すかわからない。
ここは早めに切り上げて退散しようと、足は早々その場を離れる準備をしている。
はた、と、春樹を挟んで西島と目が合った冬真は、まるで初めて世界を目にした赤子のように澄んだ丸い目をしている。
「あ、明けましておめでとうございます」
「……明けましておめでとうございます……春、誰?」
後半は春樹の耳にこっそり打ったものだったが、多分西島にも聞こえていただろう。つまり、一度面と向かって話した事があるくせに、すっかり頭から排除されてしまっているのだ。
春樹にひそひそと教えられようやく思い出したらしい冬真は、西島の持つかごの中身と本人の顔を交互に見て、急いで口を動かした。もっとも、さきの耳打ちと口調で、忘れていた事を隠しきれていない。
「ああ! 春の後輩さん! あ、カレーですか? 春んちも今日カレーなんだ。オレ、カレー得意だよ。一緒に食べる?」
「そうだな、激辛でよけりゃ……って冬真! 何言ってんだ!」
「お、いいっすね! いやー、実は作るの面倒臭いと思ってたんですよ!」
結局、春樹が口を挟む隙もなく、春樹の家でカレーパーティーが決定してしまった。アパートに着くまでになんとか西島の口を止めようと試みたが、何故か冬真と西島はすっかり意気投合したようで春樹は二人の後ろを黙ってついて行く事しかできなかった。
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