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ⅴ ⑥

「さー、はりきって作っちゃうよ! 早めに作って煮込んでおこう」  玄関をくぐるなり、冬真はキッチンに直行し材料をシンクに並べる。素早くエプロンをつけて腕捲りする様は慣れたものだ。 「僕も手伝いますよ。うわ! 唐辛子それ全部使うんですか?」 「うん、やっぱルウの辛さだけじゃ足りないからね」  同じく腕捲りした西島が冬真の隣に立ち、小山に盛られた唐辛子を見て唖然とする。 「冬真、西島も食える程度の辛さにしとけよ」 「やだ! 夏子さんのとこじゃ辛いの我慢してたから、今日は思いっきり辛くするんだから! 春も夜は良いって言ったじゃん!」  初めて冬真のカレーを食べた時の事を思い出し、春樹はリビングのソファから声をかけた。しかし冬真は頬を膨らませ頑として譲らない。夏子の家は暑い上に辛くないものばかりで、それなりにストレスが溜まっていたのかもしれない。もっとも、普通の人には過ごしやすい室温で、充分満足する美味しい料理だったのだが。 「皿によそってからお前のだけその、ハバネロなんとかをかけりゃいいだろう」 「それじゃダメ! 一緒に煮込んだ方が美味しいの!」  包丁を振り回して興奮する冬真から慌てて離れた西島が、命の危険を感じて二人の仲裁に入る。 「まぁまぁ、近藤さん、僕なら大丈夫ですから」 「お前は冬真の料理の辛さを知らないから笑ってられるんだ。どうなっても知らんぞ 」 「そんなに辛いんですか……あ」  西島は忘年会の時に春樹が平気な顔をして激辛キムチを食べていた事を思い出したようで、こころなしか顔を青くさせる。しかしまた包丁を振り回されたら救急車を呼ぶ羽目になりかねない。鼻唄を唄いながら下拵えを始めた冬真をただ見つめる事しかできなかった。 「考えてみたら、近藤さんの家に来るの初めてですね」  まだ空は明るいが、冬真が作った肴をつまみに春樹と西島は焼酎のグラスを合わせた。西島の言うように、成り行きとはいえ初めて招待した事になる。ただカレーを食べて帰ったのではつまらないだろう。  さすがに泊まるには部屋は狭いし布団もない。明日の朝の事もあるし、春樹は代行の料金を払ってやる事にして一杯やろうと誘った。  この家に誰かを──友人と呼べる者を招いたのは初めてかもしれない。夏子や恋人は何度かあるが、合わせて両手で足りてしまう。元々誰であれ自分の生活範囲に入られる事が嫌いだったのだが、冬真との生活ですっかり慣れてしまったようだ。 「春、おつまみ足りてる?」  カウンターキッチンの中から冬真がカレーを混ぜながらたずねる。辛そうな匂いが二人の座るソファまで漂って鼻腔を刺激する。匂いだけならとてつもなく美味しそうだが、食べるととてつもなく辛い。  春樹が大丈夫だと返すと、冬真はいつものあどけない笑顔を見せた。炊事が一段落すると、アイスぺールの溶けかけた氷を変えてから洗濯物の様子を確認しにベランダに出ていった。  その様子を見ていた西島が、グラスを傾け溜め息をついた。 「いいなぁ、気が利いて明るくて、甲斐甲斐しくてつまみも作ってくれて、可愛くて」 「そりゃ、いったい誰の事だ」 「やだなぁ、冬真さんの事に決まってるじゃないですか。他に誰がいるって言うんです」 「お前のとこの奥さんもそうだろう」 「近頃は料理どころか家事もしませんよ。初めての妊娠で体調も悪いんですけど、ずっとカリカリしてて」  なにしろ胎内で人間を一人育てているのだ。心身ともに何か不調があっても不思議じゃない。女性の神秘については男には天地がひっくり返っても理解できる日は来ない。だからそれを理由に妻を責める事などできるはずもない。 しかしもう少し夫に構って欲しいのも本音だ。ついつい喧嘩腰になってしまい、妻の情緒は益々不安定になる。  西島がまた溜め息をついて目を細めた時、冬真がベランダで叫ぶ声が聞こえてきた。 「あー! 洗濯物が飛んでっちゃった! 春のシャツが轢かれる!」  ベランダを見ると、冬真が柵から身を乗り出して足をばたつかせている。春樹は背中がぞわりと総毛立ち腰を浮かせた。 「馬鹿! 落ちるぞ! 俺が取ってくるから中に戻ってろ!」  春樹が慌てて玄関を飛び出して行ったのと入れ違いに、洗濯物を両手に抱えた冬真が居間に戻ってきた。ソファの後ろに洗濯物を置いた冬真は、ちらりと玄関を見て、ぶつぶつひとりごちながら洗濯物を畳み始める。  西島は体をねじって背後の冬真を見下ろした。 「あーあ……あのシャツ、洗い直しだなぁ。轢かれてなきゃいいけど」  見れば見る程に、冬真の色素の薄さに溜め息が出る。世の中にはアルビノの人間も存在するらしいが、それとはまた違う白さだ。こんなに目立つ青年が今までどこにも露出しなかった事が不思議だ。 「冬真さんと近藤さんって、どうして知り合ったんですか?」  クールな春樹とはまるで対極にありそうな冬真がどうして今の関係を築く事になったのか、接点がわからない。  洗濯物を畳んでいた冬真は、声を掛けられて初めて西島の視線に気付いた。 「どうしてって……オレが春をナンパしたんだよ」 「へー……え? それで近藤さんが冬真さんのナンパについてったんですか?」 「いや……春がオレをナンパしたとも言えるかな?」  西島の頭はますますこんがらがってしまった。どちらにしても春樹とナンパは一番あり得ない組み合わせだ。  聞けば出会ってその日に家に泊め、三日とあけないうちから居候させ、正月には実家に連れて行ってもらったのだと。 「まさか、あの近藤さんが……よっぽど冬真さんの事が好きなんですねぇ」 「春が? オレを?」  洗濯物を畳む手を止めた冬真は西島を見上げて目を丸くする。なぜ西島がそんな事を言い出したかわからないという顔だ。   「だって、あの近藤さんが他人のためにお金と時間使って、おまけにクリスマスに正月なんて、結婚を考えた彼女にさえ一度もしなかったんですよ。相当好かれてるとしか思えませんって」 「そうなんだ……あ! 今の話、春には内緒ね!」  玄関が開く音で、冬真は素早く話を切り上げて春樹を迎えに急いだ。体を戻した西島の耳に、二人の会話が届く。  ──ありがとう。そろそろお風呂にする?  ──そうだな。俺が入れるから、お前は少し休んでろ。帰ってから働きっぱなしだろ。  西島はグラスを回し、まるで夫婦のような会話になぜだか自分の胸が暖まるのを感じた。 「西島、冬真に余計な事言わなかっただろうな」  風呂に湯を張る間に一服しようと、すっかり水だけになってしまっていたグラスの中身を捨ててから、春樹はソファに体を沈めた。すぐに西島が新しく作ってくれた焼酎のロックを胃に流し込む。煙草に火をつけてから、寝室に洗濯物を抱えて行った冬真に聞こえないよう春樹は声をひそめる。  西島は「余計な事」が何を指しているかわからず、わずかに首を傾げる。  それを説明するには忘年会まで、いや、それ以上遡って誤解を解くところから始めなければならない。しかし春樹は「何でもない」と同じように首を傾げただけで何一つ説明しなかった。また同じ問答を繰り返すのも面倒だったし、それにもう誤解を解きたい気持ちがなかった。はじめは冬真に余計な事を吹き込まれたらどうしようかと頭を抱えたが、アルコールのせいか今やどうでもよくなっていた。  春樹と冬真が付き合っているという事実は勿論ないが、西島がそう思い込んでいる事を利用したいのだ。西島が「ラブラブっすね」と耳打つと、まるで本当に冬真と恋人としてここに住んでいるような気がして、いい気分だった。  冬真がいつか帰るまで、せめて夢を見ていたい。  それから風呂に入り三人で激辛カレーを囲んだ。前回よりパワーアップしていたカレーに、まだまだ冬は深いのに春樹はしこたま汗をかき、西島は口の中の感覚が無くなったと騒ぎ、冬真はもう少し辛くすればよかったと呟いて二人に怒鳴られた。 「まだ口の中が痛いですよ。近藤さん、よく文句言わずに食べますね……」 「言っても聞かねぇんだよ」  日付が変わる前に西島を帰しておきたい。でないと明日の業務に支障がでるかもしれない。代行を手配した後、春樹と西島は駐車場で車を待っていた。 「今日はありがとうございました。冬真さんに美味しかったって伝えて下さい。辛かったけど……近藤さん、幸せになって下さいね」  まだ口が痛むのだろう、西島は舌ったらずに言った。春樹を見て微笑む様は、同じことを言っていた夏子と重なった。心から春樹の幸せを願っている。 「何でそんなに俺の事を気にかけるんだ?」  ただの後輩で、まだ付き合いも短い。親でも友達でもないのに、なぜそんな顔ができるのだろう。西島は春樹の対極の人間なのだろう、理解が難しい。 「父親……は言い過ぎっすね。なんか近藤さんって兄貴みたいで。僕は一人っ子なんで兄がどういうものかは知らないっすけど、いたら近藤さんみたいな感じかなぁって。あ、兄貴も図々しいですよね」 「いや……嬉しいよ」 「兄貴の淋しい背中なんか見たくないです。冬真さんなら、近藤さんを幸せにできる気がします。この先もずっと」 「この先も、ね」  声を落として自分の爪先を見つめる春樹の顔を、西島がどうしたのかと覗きこんできたが、春樹は何でもないと濁した。ちょうど代行のヘッドライトが二人を照らし、話はお開きになった。西島は車から降りてきた運転手と二、三話し、ライトの眩しさに目を細める春樹にぺこりと頭を下げ帰って行った。  春樹は車のテールランプをぼんやりと目で追い、角を曲がり見えなくなったところで部屋に戻った。  ただいまと声をかけながらリビングの戸を開けたが、冬真の返事はない。キッチンを覗いてみても片付けの途中で放置された食器があるだけ。ソファーを見ると、エプロンをつけたままで寝息を立てる姿があった。夏子の家から帰って働きづめでやはり疲れていたのだろう。誘ったのは冬真だが、客の対応で気疲れもあったのかもしれない。  春樹はソファーで眠る冬真からエプロンをそろりと引き抜き、膝と背中に腕を差し込み横抱きに抱えた。そよいだ冬真の髪からは、春樹と同じ匂いがした。同じシャンプーを使っているから当たり前なのだが、何故だかそれは不思議な感覚がする。思わず白銀に頬を寄せると、氷でできているのかと思うほどひやりとした。  抱えても起きる気配のない冬真をベッドに静かに寝かせてやり、自分は端に腰掛ける。額から手を差し入れやんわり頭を撫でると、口許をほころばせる。 「……この先、なんて……ねぇよなぁ」  頭を撫でていた手で白い頬を撫でる。ひんやりとした頬は見た目通り滑らかで、まるで磁器のようだ。そこに赤く映える唇を親指でなぞれば、わずかに湿った感触。春樹はその唇に吸い付きたい衝動をこらえ、静かにベッドから立ち上がった。  電気を消し、部屋を出ようとする春樹を小さく呼び止める声が聞こえて、体を強ばらせた。 「春……待って」  まさか、起きていたのか?

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