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ⅵ ⑥
年末と年始、部長の挨拶を聞くためフロアの人間が集まるが、狭い総務課には十人と入らない。部長の小さな声は集団の半分も聞き取れないだろう。しかし近くで聞くことができるのに春樹は話が一つも頭に入らなかった。自分の課に戻りいつもの朝礼が始まっても、それもだめだった。
機械的に仕事をし、十時を過ぎてもパソコンを睨みつけている春樹を連れ出した西島は、隣で一言も口をきかずつけた煙草も吸わない春樹を黙って見ていた。なにか話そうにも心ここにあらずの春樹に届くかどうか。やがて伸びた灰がポトリと落ち、はっと我に返ったらしい春樹は目を丸くして辺りを見回した。しばらく西島を見たあと、短くなった煙草を揉み消し新しいものに火をつけた。
「……西島」
「おはようございます」
「ああ……おはよう、いや、明けましておめでとう?」
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃねぇな。俺、ちゃんと仕事してたか?」
「してましたよ、問題なく」
そうか、とだけ言って春樹は買ったまま開けずにいたコーヒーを開ける。また黙って煙を吸い込み長く吐き出す。
朝、バスに乗る前に駅のトイレに寄った。本来の用途とはだいぶ違っていた。便器に付いた白濁を情けなく思いながら拭いた。それでも手を洗う時ふと、水の冷たさに冬真の感触を思い出し体が熱くなった。おかげさまですっかり頭と体が分離してしまったようで、体は仕事をしていても頭の中では昨夜の情事を延々繰り返していた。
──ああ、また昨夜のことが夢だったのかと思う前に帰りたい。帰って冬真をこの腕で
抱きたい。抱きしめて、頭を撫でて、キスをして……
「近藤さん!」
つけた煙草がまた灰になった頃、西島に肩を揺さぶられ春樹は現実に戻ってきた。コーヒーを飲み干し西島を見やると、心配気に眉根を寄せ春樹を見上げている。
「マジで大丈夫ですか? なんかあったんですか?」
「いや……その、なんだ」
春樹が口ごもっていると、西島の心配気な表情がだんだんと訝しげなものになっていく。まずいと思いながらも言葉を探し目をきょろきょろさせていると、やがて眉が吊り上がっていく。案外早合点らしい西島が暴走する前には何か言わなくては。
「その、あれだ……お前には世話んなったな……動画とか」
「動画?」
「……もし奥さんに見つかりでもしたら、お前……西島も立場が悪くなっただろうに……おかげで参考になった……」
西島はしばらくぽかんと口を開けて金魚のようにパクパクさせていたが、しばらくすると合点がいったようで急に紅潮し目をそらした。
「あ! あー……さ、参考になったようでなによりです」
「いや……俺はネットとか……疎いからな……」
いつもなら一服──西島の場合はニ服だろうが。終わると寒さも相まって早く戻ろうとソワソワしだす西島だが、今日はわざとらしく空になった缶コーヒーを揺すってみたり、逆さにして啜ったりしている。
「あの……近藤さん。僕、昼までに不法投棄の現場確認に行かなきゃならないんすけど……えーと、場所が不安なんで着いてきてもらえませんか」
「え?ああ……」
普段車に乗り慣れていて、趣味はドライブだと言う西島は、ペーパードライバーでおまけに役所から自宅以外にほとんど足を向けない春樹より地理には明るいはずだ。なので自然と車を使う仕事は西島に傾いてしまっている。その西島がわざわざ真剣な顔をして頼んで来るということは、隣でナビでもして欲しいほど面倒な場所なのだろうか。
特に急ぐ案件もないし、気分転換にもなるかもしれない。春樹は訝しく思いながらも了解した。
課内に戻り、課長に報告してから西島は徒歩数分の場所にある公用車用の駐車場に向かった。
車を一台回すだけでも一仕事だ。上長の許可印やら用途やら目的地やら使用者情報やら、駐車場から出るにも数分かかる。
持て余した春樹は、バルコニーに続く外階段を上がって、荷卸専用の駐車場を眺めながら煙草に火をつけた。
馬鹿みたいに頭が回らない。
また半分灰にしてしまったところで、路肩でハザードランプを点滅させている公用車に気が付いた。
「何も積まないなら停めるなって言われまして。急いで出ましょう」
春樹と西島は背中に警備員の痛い視線を受けながら急いで役所を後にした。
「それで、どんな面倒臭い場所なんだ?」
課内の朝礼をろくに聞いていなかった春樹は行き先がわからない。カーナビを目的地設定画面にして西島に尋ねる。しかし西島は行き先を告げるでもなく硬い顔をしたまま黙って車を走らせている。話もできないほど運転に自信がないわけはないはずだが。
話しかけてもうんともすんとも言わないものだから、そのうち春樹も黙って景色なんか見ていた。まぁ、わからなくなれば西島から何か言ってくるだろう。
そうしてもう十分も走っただろうか。流れる景色をぼんやり眺めていた春樹にはじわじわと睡魔が忍び寄って来ていた。もうどこを走っているかもわからない。都会の喧騒を離れて田んぼ道に入ったようで、のどかな景色とエンジン音、タイヤが古い道路を走る音が心地よい子守唄に聞こえてくる。時折踏む段差や小石で揺れる車体が、まるでゆりかごのようだ。
「近藤さん、すみません」
随分重くなった瞼に、接着剤でもついているのではと疑いはじめた頃。唐突に西島が謝り、夢と現をさまよっていた春樹は寸でのところで現実に戻ってきた。
「ん……あぁ……大丈夫だぞ、そう急ぐ仕事もなかったし」
「そうじゃないんです。実は、嘘つきました。現場までの道、知ってるんです」
聞けば、あれは春樹を連れ出すための口実だったそうな。
「ああゆう場所じゃ、誰が聞いてるともわかりませんから。まぁ……別に今日必ず聞きたいってわけでもなかったんですが、性分ですかね」
「まぁ、いいんじゃねぇか。おおっぴらには話せないような事してるのは俺のほうだし」
良くも悪くものんびりしている課だ。たまには外の空気を吸うのも悪くない。最も、やっかいな市民に見られたらまずいことになるだろうが、一応は現場に向かうまでの道のりだ。
「そんな、恋愛は自由なんですから、卑屈にならないで下さいよ」
「じゃあお前は言えるか? 例えば奥さんに、会社の先輩がゲイなんだって」
「……言えませんね」
「だろ。まぁ、お前は人の事をべらべら喋るやつじゃないから、そう言うシチュエーションもないだろうが」
「よく見てますね、僕のこと」
「そうか? 普通だろ。お前……西島が俺の事をよく見てくれてるのと同じだろ」
「近藤さん……僕なんて、ただのうるさい後輩だと思ってたんじゃ」
「ははは! わかってんじゃねぇか。お前の事なんてただの困った後輩だと思ってたよ……けどな、お前、西島が俺のことを兄貴って言うなら、俺にとっちゃお前は弟みたいなもんだろ。うるさくてもおせっかいいでも早とちりでも、かまわねぇよ」
「近藤さん! か、感動です!」
感動して春樹を振り向いた西島は、力が入ったのだろうハンドルを握りしめた手をあらぬ方向にひねってしまう。あわや田んぼに突っ込んでしまうところだ。
「うわ! いいから前見て運転しろ!」
車の通りがほとんどない田んぼの真ん中だったからよかったものの、幹線道路なら大惨事だ。とりあえず路肩に──と呼べる程広くもないが。車を停めさせ落ち着かせる。聞くところによると、現場はここから数分歩いたところなのだそうな。ならばと、ひとまず仕事をを済ませてしまうことにした。
現場はなかなか酷いものだった。田舎で夜間は人目につかない事と、竹やぶがちょっとした林の体を成しており、掻き分けて入らなければ中の様子は分からない。それをいいことに、家庭ごみから粗大ごみ、酷いものでは何かの死骸まで確認できた。事前に聞いた所有者の話では、気付いた時には既にこの有様だったそうな。
一通り写真や特記事項の確認を済ませ車に戻る。
「それで? 話があるんだろ?」
こんな田んぼの真ん中では自動販売機もない。とりあえず国道まで車を走らせ、目に付いたコンビニに入りコーヒー片手に喫煙所で一服を終え車に戻る。
「いやぁ、近藤さんの幸せそうな顔見てたら、良かったなぁとはじめは思ったんですけど、その……冬真さんって、わけありですよね?」
以前ペットだとか家出少女だとか言う話を憶えていたらしい。
「ああ……家出ってわけじゃないが、なんでか家に帰ろうとしないんだよ」
冬真はちゃんと仕事をしていて、今は長期休暇中だと話す。職場に電話していた事も話し、住所不定無職でないことは納得したようだ。
「そうなんですね……僕が言いたいのは、そんなわけあり少年と、このまま暮らしててもいいのかって事なんです。もし、背後に後ろ暗い事があるようだったら、その……あまり良くはないと思うんですよね……」
「……わかるよ、言いたいことは。俺もこのままじゃ駄目だと思う」
冬真は自分の事を話したがらない。お互いの気持ちを確認して、めでたく結ばれ、ハッピーエンドと言うわけにはいかない。最も「何か」があったとしても、冬真を手放す気はさらさらないが。
「俺は……もし、冬真の家がやんごとなき家柄だとか、やくざな稼業でも、連れて逃げるくらいの覚悟はあるらしい」
「らしいって、自分の事っすよ、近藤さん。てか、そういう事は冬真さんに言って下さいよ」
「そうだな。そう言う事も、話さないとな」
西島は、抱えるように握りしめていたハンドルを一層強く握りしめる。
「前も言ったように、僕は、近藤さんを軽蔑したりしません。でも、身元不明の青年を匿うってのは、健全じゃないと思います。僕に、心から、応援させて下さい」
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