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第九話「伝う滴、引き裂かれる」

滲んでいたのは確かに喜びの色。なのに次第に浅野の胸は苦しくなっていった。伝えきれなくてもどかしいこの想いは知らない。そんな気持ちの名前も知らなくて息苦しささえ覚える浅野は自らの胸元を掴む。 ただ、この気持ちに名前を付けるならきっと…。 「好き、だ」 零れ落ちる。想いが、先程と同じように言葉が全てを語るように自然と唇から。愛を抱いている。お互いをあまり知りもしないのに何故こんな感情が溢れるのかは理解に苦しむ。それでも確かに浅野の中には他人に対しての愛で満ちていた。同時に一筋の涙が井上の頬を伝った。浅泣いているのは自分だと思った浅野は反面驚いていたが、疑問が次いで口から少しだけ震えた音で出る。 「何で…アンタが泣いてんだよ」 「俺は、とてもイケナイ先生ですね。遠くで見守ってるだけで良かったのに…この手で触れたいと思ってしまったんです」 そう言いながら井上はハンカチで白濁を拭った後、乱した下服を直していく。浅野も前を整えれば乱暴に井上を抱き寄せた。例え世間が二人を拒否してもいいとすら思えていた。自分はずっと否定され続けてきた。認められたのは美術の腕と容姿、親が有名な美術家で金持ちということだけ。浅野自身を見てくれる者など一人も居ない中で、何故か井上は唯一そうじゃないと確信が持てた。講師であり、男でありながら想いを告げたあの唇は、先程頬を伝った涙は、きっとその証なんだと思えた。自らの否定の言葉に押し潰されそうになっていた頃の事などどうでもいいと思える。浅野は井上たった一人が自分を認めさえしてくれればそれでいいと思えたのだ。その気持ちはきっと間違いではなく正しい。素直に零れた先程の言葉は、嘘偽りなく出た言葉だったからだ。井上を抱き締める腕に少し力が入る。 「どうだっていい、そんなこと。俺は俺、アンタはアンタで一人の人間だろ。それにアンタがイケナイってんなら、俺も同じ事だ」 「…横暴に聞こえるけど、優しい言葉だと思います。ありがとう、浅野君」 井上も応えるように浅野の背に両の腕を回し緩く布を掴んだ。流れる空気はとても柔らかい。抱き合っているだけで心地良いと思えるくらいに安らいでいた。そして、どちらからともなく唇を柔らかく重ねた。 その時―――。 カシャッ、と、不自然にシャッター音がその空気を断ち切った。次いで響き渡るのはいつも高いはずの音が何かを企むように低く落とされた声だった。 「あらあら、いいのかしら?講師が生徒を誑かすなんてことしちゃって」 浅野の鼓膜を不快に叩く声の方へ視線を流せばそこには四ノ宮の姿があった。勝ち誇ったような表情の横で抱き合う二人が写るスマートフォンが掲げられている。そっと井上が離れた後、浅野は四ノ宮に向き直る。見据える瞳は少しばかり怒りにも似た色が滲んでいた。そんな浅野にも四ノ宮は動じない。弱みを握る人間は全能なのだ。暫しの沈黙が流れたが、漸く浅野が口を開いた。 「望みは何だ?」 「決まってるじゃない。詠斗、私の物になりなさい。じゃないと、この写真をばらまくわ」 ちらりと井上に視線を配る四ノ宮の表情が醜い笑みで歪む。浅野が視線を同じように寄越せば何も言葉を発する事も出来ずにただただ青ざめていた。この時ばかりは井上も覚悟を決めたのか、深い息を吐き出した後大きく勇気と共に吸い込んで口を開いた。 「それなら、俺がこの学校を…」 思い通りにならなさそうな雰囲気に四ノ宮の表情が戸惑った物に変わる。だが、その言葉の先は言わせまいとすかさず浅野は割って入る。 「アンタがそこまですることねぇよ。この種を蒔いたのは俺だ。俺が責任を取るべきだろ」 「浅野君…。けど、俺は君と…」 「悪ぃが引いてくれ。これはケジメってやつだ」 断じて井上の言葉は聞かないという浅野の態勢にそれ以上は何も言えなくなってしまう。安堵とも取れる息と共に四ノ宮は笑いを吐き出した。そして浅野はゆっくりと四ノ宮の傍らに歩んでいく。それにはやっと手に入れたとでも言う様に四ノ宮が浅野の首元に腕を絡ませ口付けを与えた。それを受ける浅野の表情は殆ど無に近しい。それでも、井上はやるせない思いと共に傷付いていた。悔しさを表すように薄い唇を痛々しい程強く噛み締めながら俯き気味に歩を入り口へと進ませていく。そんな井上に向けて擦れ違い様に四ノ宮は吐き捨てた。 「無様ね」 嘲笑う様なその言葉に思わず振り返るも、次いで見える光景はそれ以上何も言わせまいと四ノ宮の唇を乱暴に奪う浅野の姿だった。井上の事を思っての行動だが、この上なく胸を抉られた。それを見ていられずに井上は足早にその場を去っていく。二人の想いは繋がったというのに、引き裂かれてしまう。浅野の世界で一番嫌悪している存在、母親に似る四ノ宮の手によって。更にはその手の中に入る事になってしまった。ケジメと口にはしたものの納得がいかない違和感があるのも事実である。だが、井上の人生を自分が壊すわけにはいかずにその違和感は飲み込んだ。 「ねぇ…詠斗。ちゃ~んと、私の事好きになってね?」 妖艶な笑みを浮かべる四ノ宮の口から皮肉めいた言葉が紡がれる。逆らう事も出来ずに怒りの炎が宿される瞳で浅野は見据えている。浅野は一つ瞬きをすればその炎を消し去り色の無いそれで見つめた。勿論浅野の頭にはちゃんと考えがあるのだ。それは、井上にも四ノ宮にも知り得ないことだった。この後どうなるのかは誰も知らずに四ノ宮は勝利を確信した笑みを浮かべていた。

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