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第十二章・3

 午後、社長室に改めて入った樹里は、コーヒーの香りに包まれた。 「どうだった? 体に異常は無かったか?」  ノートパソコンを慌てて閉じ、徹は身を乗り出した。 「お医者様は、大丈夫だ、って言ってくださいました」 「良かった……」  午前中、徹が不用意に切り出した別れ話で、腹痛を起こした樹里。  これで流産でもしたら、一生自分を恨むだろう。  それにしても、と樹里は鼻をひくつかせた。 「いい香りですね。綾瀬さん、ご自分でコーヒーを淹れられたんですか?」 「うん。今後、樹里を独り占めできなくなるだろうからな。コーヒーくらい、自分で淹れないと」  気が早いですね、と樹里は微笑んだ。  デスクから立ち、徹はその身体を後ろから抱き寄せた。  明るい日差しの中、樹里が最初に描き上げた絵が温かく輝いている。  それを二人で眺めながら、徹はぽつりと言った。 「この絵だけは、売らなかった。樹里が、私のために描いてくれた大切な作品だからね」  そう言えば、と徹は樹里の横顔を覗き込んだ。 「タイトルは?」 「タイトル、ですか」  うん、と徹は頷いた。

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