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第3話

   *  1億4000万。  コツコツと、そこまで頑張ってきた自分をほめてやりたい。フロント企業とは言え、社員6人をこれまで養ってきた。常にボーナスも二期出してきた。土地ころがしを隠すために、居抜き物件を多く扱ってきた。大半は世間に喜ばれるまともな商売だ。売上のいくらかを組に貢いでいるだけだ。  ショバを広げずに狭い地域で根強く戦ったのが勝因だろう、路面店の流行り廃りはすぐわかる。貸して潰れる時期もすぐわかる。経営者の顔でわかる。ダメそうな奴には最初から違約金を増額し、儲かりそうなところは借りやすく頭を安くし、金を積んでもらい、さらに好条件の空き店舗を軌道に乗った時に紹介する。人の欲は金になる。そうしてコツコツ会社を大きくしてきた。   「まさかタワマンの最上階に、テメェごときが住んでたなんてなぁ」  べらんめぇの女社長は窓際を歩きながら、夜の展望を確認する。薗田の付き人よりもっとおっかなそうなデカパイが黙って俺の横に立っている。めちゃくちゃいい臭いがして気絶しそうだ。 「…いえ、私ではなく、もとはといえば片桐の塒です。バックレるときに、なんでだか名義を私に書き換えて」 「片桐? あいつ死んだの?」  死んだと露骨な言葉を使われるとちょっと辛い。 「……火事の焼け跡からはキリさんの死体はでませんでした」 「やっぱりねぇ。いった通りじゃないか、あいつが組の殲滅を図ったんだよ」 「……」  片桐は組で唯一のキレモノだった。寡黙だが、下っ端からも組長や若頭からも信頼される男だった。いつも真っ先に組長のために動き、汚れ仕事も一番に成し遂げきれいに片づけていた。とても、組を裏切るとは思えないのだが、薗田もこの女社長も片桐を疑っている。 「姐さんは片桐が生きていると思いますか?」  口を尖らせて聞くと、女社長は細いタバコを咥えた。すかさず、ツインテールのゴスロリ女が火をつける。…どこに居た? こいつ。 「徳重ぇ。この世には(うつつ)につながっている地図にない町があって、そこに住む住民がいるんだよ」 「……トトロとか?」  デカパイが揺れてビクっとする。タメ口だったと慌てて、「ですか?」と続ける。 「まぁ、そんなもんかね。見える奴と見えない奴がいる」  やけにシリアスに女社長が言うので、納得した振りをして頷いた。キリさん、トトロの仲間だったのか。 「…で、これをあたしに買えってか?」  女社長が足で一円を描く。そう、この部屋を売り飛ばすしかない。 「明後日までに現ナマが必要なんです」  乙女のように両手を胸元で握って見せる。 「いくらだ?」 「2億5000!」 「ぼったくりもいいところだな」  女社長がタバコの灰を弾いて大理石の床に落とす。 「に…2億3000で!」  女社長が顔を下げ、下から睨むように視線を投げてくる。冷汗が脇を流れた。 「だって、ワンフロアですよ。窓から見えるのがスカイツリーだったら諦めますけど、東京タワーですよ。社長なら絶対昭和生まれの東京タワーの方が好きですよね?」 「1億」 「2億2000」 「1億2000」 「2億!」 「…帰ろうか」 「わぁ、待って待って!」  ッタン! デカパイ様の回し蹴りを前から食らった。後ろからじゃないだけ手加減されていると思った方がいい。ふらつきながら、「お待ちください」と言い直す。  土下座をすると鼻から血が流れてきて、床にポタポタと落ちた。デカパイ様の蹴りはなぜかいつも避けられない。 「明後日までに1億4000万払わないとならんのです! どうか…」 「得体の知れない男が住んでたとこでしょー? 高くなーい?」  キモ。女社長が女子高生のような言い回しをする。ゴスロリがアニメ声で「高い高い~」と身体を揺らすと、 「たかーい」  デカパイまでも感情のない声で追随した。 「そこをなんとか…」  ヒールの音が近づいてきて、指先に灰が落ちた。 「お前の塒、ついさっきブクロの不動産屋が売りに出してたぞ。この金額だとお前の懐には6くらいは入るだろ? それを手数料と考えていいのかしら?」  くぅ。30歳を前にして文無しにはなりたくなかった。600万くらいもらってもいいじゃねぇか、とは言えない。もはや頼れるのはこの姐さんしかいない。腹を割るしかない。 「それは、盃を返す資金にしようと…」 「へぇ、今時は金で解決できるのかい?」  かどうかはわからないが、組はなくなり、フロント企業の社長も逃げた。静かに存続するにしても戦争するにしてもまず、金が必要になるはずだ。 「お前の浅はかさ。私は好きだけど、時々物足りないね」  ピンヒールがぐっと手の甲に押し付けられる。うっわー。こんなもので穴開けられたら、完治するのに何週間かかるんだろう。ぼんやりと食い込むそれを見ていた。もしかすると、もしかしなくても小指がないより、恥ずかしいことかもしれない。 「社長…」  怖がっているようなかわいい声が遠くで聞こえた。さっきのゴスロリだろうか。その声で、あと一押しで血しぶきという陥没を残してピンヒールが離れた。 「お前、足抜けして真人間になるつもりだってことか?」  頭から小ばかにした口調が降り注ぐ。 「ああ…。心底嫌になった。できるもんなら別の世界で生きたいと…」 「あはははは!」 「きゃははは!」 「…クス」  女から100%の支持率をいただけるお笑い要素がどこにあった? 「面白い。お前の人生に1億4000万、払ってやろうじゃないか」  誰にも追われない生活を手に入れるために、女社長が軍資金をくれることはなかった。あとはこちらでやるといって、財布もスマホも免許書も、ポケットティッシュもロッカーのカギも取られてまさに、身ぐるみはがされた状態で勝鬨橋の端っこに捨てられた。ちょっと歩いたら薗田のフロント企業である質屋よろしくブランド買取店が軒を連ねる銀座だ。とことん意地悪だ。  デカパイに蹴り飛ばされて車中を出ると、朝霧にもやった都会が美しく見えた。ああ、美しいと感じる世界から離れられたら、煩悩は減るのだろうか。 「頼む、交通費だけでもくれ」  どこに行くというあてもないが、この場所からは離れたかった。ゴスロリが後部座席から下りてきて、傘のようなスカートのでかいポケットからトマトを差し出した。え? トマト? 「もえたんの実家で採れたの。とーたんこないだ死んじゃって、かーたん一人で大変だっていってたのー」 「?」  トマトを受け取った。保存状態はともかく、真っ赤に熟れておいしそうだった。受け取ると、トマトの下になにか感触がある。  シートにもたれ掛かりながら女社長が言う。 「いいか? 一時間以内に都内から出ろ。そうしないと保証はしない。お前の社員も社員の家族の命もな」  もえたんが後部座席に乗り込むと、運転席のデカパイが意味不明なクラクションを何度か鳴らした。うるせーっつーの。  トマトを齧ろうとすると、掌に500円玉が載っていた。もえたん、いい娘や。  社長の乗ったフォルクスワーゲンが勝鬨橋を越えて消えると、反対車線から、白いSUVがやってきた。ああ、薗田の車だ。トマトを握って川沿いのサイクリングロードを猛ダッシュした。

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