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俺は尾形(おがた)貴文(たかふみ)――しがない電気部品会社に勤務するサラリーマンだ。 二流の大学を出て、とりあえず就職出来ればいいか……くらいの気持ちで入った会社だったのに、気が付けば四年が経過していた。 長いようで短い月日の中で、俺の周りではいろいろな事が起きた。その中の一つが俺の人生を変えてしまった。 俺には三つ年上の純一(じゅんいち)という兄がいる。二人兄弟で幼い頃から仲が良く、しっかり者の純一は俺の面倒をよく見てくれた。 真面目で成績優秀な彼は県内でも有数の進学校に進み、一流大学から有名商社へと就職し、まるで絵に描いたようなエリートだ。そんな彼から連絡があったのは、俺が今の会社に就職が決まり、引っ越しを考えていた時だった。 偶然というのは恐ろしいもので、純一が勤務する商社から三駅ほど離れた場所に会社があり、無駄に広いマンションの一室を持て余していた彼が一緒に住もうと言い出したのだ。 正直――嬉しくもあったが、悲しくもあった。 兄が高校進学と同時に家を離れた時、俺はある感情に気付いてしまったのだ。 いつも近くにいて当たり前だった存在が急にいなくなること寂しさと虚しさ。 会いたいと思えばいつでも会いに行ける距離ではあったし、長期休業の折には必ず帰って来てはいたのだが、やはりいつかは俺の側を離れて行ってしまう。  出来ることならば引き止めたいと思う気持ち――そう、俺は兄を愛してしまっていたのだ。  そして、俺も大学進学と共に実家を出て、二人の距離はさらに離れてしまっていた。そんな時に純一の方からの“一緒に住もう”という申し出は願ったり叶ったりだった。  ほぼ毎晩と言っていいほど彼の香りを探して部屋に入り自慰を繰り返していた俺。  でも、それは弟として許されない行為。  俺が純一の事を想い焦がれていると知ったら、真面目な彼はきっと軽蔑し二度と会ってはくれないだろう。 そんな想いをひた隠し、俺は彼との同居を決めた。 俺たちの住むマンションは、土地開発で周囲にはいくつものマンションが立ち並ぶ閑静な住宅地にある。 駅からは徒歩十五分という距離で、コンビニやスーパー、公園や学校などの教育施設があり、住民にとっては住みやすい環境だ。 煩いだけの繁華街をあとにした俺はエントランスでオートロックを解除しエレベーターに乗り込んだ。 シャワーを浴びてきたとはいえ、やはり他の男の匂いをさせて最愛の人の前に立つことは憚れる。 ポンッと控えめなチャイムが鳴り部屋のある八階に到着すると、俺は着ていた上着にそっと鼻を近づけた。 (大丈夫だな……)  ドアホンを鳴らし、事前に俺が帰ってきたことを知っていてかすんなりとドアが開いた。 「おかえり。今日は遅かったんだな?」  スウェットパンツとTシャツといったラフないでたちで出迎えたのは純一だった。  身長はわずか五センチしか違わないのだが、肩幅は広く引き締まった体には無駄な物はない。 「ああ……」  靴を脱ぎスリッパに履き替えながら、脱いだ上着を腕に掛けたまま彼の前を通り過ぎる。  ふわっとソープが香ったのは、彼が風呂上がりだったせいだろう。 「お前――っ」  何か言いかけて言葉を切った純一は、取り繕うかのように言葉を繋いだ。 「――風呂は?すぐに沸かせるけど……」  俺は足を止めて、肩越しに振り返ると彼を睨んだ。 (気付いているクセに……)  彼が言い淀んだのは、きっと俺の体から香ったソープのせいだ。  どこか別の場所でシャワーを浴びて来たことを分かっていて、なおも風呂を勧めるなんて……。 「疲れたから、ビール飲んで寝る。兄貴も……飲む?」  いつもならばリビングに向かうのだが、今日は自室へと直行する。  4LDKの部屋は男二人が住むには広すぎる。俺が来るまではこの無駄に広い部屋に純一が一人で住んでいた。  完全防音で外部の音はもちろんだが、家の中で隣接する各部屋の騒音は聞こえない。だから、鍵を掛けて純一をオカズに自慰に耽っても、彼には聞こえることはなかった。 「あぁ……。一緒に飲むか?」 「いや。一人で考えたい事あるから……」 「そっか…。明日は少し早めに出勤するけど、お前大丈夫か?」 「小学生じゃあるまいし……。勝手に起きて、飯食って行くからっ」 「――ごめんな。おやすみ」  彼の顔を見ることなく部屋のドアを開けて後ろ手に締める。カチャリと施錠した後で、俺はソファに上着と通勤バッグを放り投げると、ベッドの上に倒れ込んだ。 “ごめんな。おやすみ”  純一の切なげな声が耳から離れない。彼に何かと冷たく当たってしまう自分が嫌でたまらなかった。  ここに来てからというもの、それはずっと続いていた。  同じ空間にいてもなお、会話も必要最低限で接触も少ない。  幼い頃、頬を寄せ合って同じ布団で眠っていたあの頃が思い出され、なぜか悲しくなってくる。  職場ではストイックで、役職がついたここ数年では厳しい上司として部下から一目置かれている男が、俺に対してだけに見せる弱さを毎日これ見よがしに叩きつけられているようで、息が詰まりそうで苦しい。  純一と一緒に暮らすこと――それだけが自分の希望であり幸福だと思っていた。  それなのに現実は吐き出すことの出来ない想いに圧し潰され、息苦しく、ツラいだけの毎日。  いっそのこと絶縁を覚悟でぶちまけてみようか――そう、何度思った事か。  俺が外で何をしているか知っているクセに何も触れようとしないことも苛立ちの要因の一つだ。  風呂上がりに相手につけられたキスマークを晒したこともあったし、酔って帰った時などはリビングのテーブルの上にコンドームと一緒に相手の名刺をばら撒いたりした時もあった。  その日の相手によってはレイプまがいの情交の挙句、シャワーも浴びずに帰宅することもあり、自分でも気づくほど雄の匂いをぷんぷんさせていた時もあった。  それなのに――。  純一は何も言わない。咎めることもなければ、叱ることもしない。  一緒に住んでいながら、まるで空気のような存在になっている事が耐えられなかった。  そして、ここ数ヶ月の間に急増した実家から送られてくる純一宛ての見合い写真。  先日、たまたまリビングで見かけ、見て見ぬフリを決め込んだが、その日一日は仕事にならなかった。 「――貴文。起きてるか?」  不意にドアの向こう側で低い声が響いて、俺は勢いよく体を起こした。 「な、何だよっ」 「ビール、持ってきた。お前、飲むって言ってただろ?」 「あ……。あぁ」  だらしなく緩んだネクタイを引き抜いて、ベッドから下りると解錠してドアを細く開けた。  廊下の照明に照らされた純一の顔が見えて、さっき鎮めてきたはずの熱が再び燻り始める。 「一本でいいか?足りなかったら冷蔵庫に――」 「ありがと。一本でいい……」  言いかけた言葉を遮るようにして早々に会話を終了させると、俺はドアを閉めた。  こんな不愛想で可愛げのない弟を持ったことを、純一はきっと後悔しているだろう。それだけじゃない。自身をネタに自慰を繰り返し、それでも抑えきれない欲望を他の男で埋め合わせているなんて……。  何人かの女性とも関係を持ったが、今では同性である男にしか欲情しなくなってしまったのはきっと――純一のせいだ。  冷たい缶ビールは指先の感覚を鈍らせていく。  これを一気に飲み干したら、俺の野蛮な脳ミソも鈍らせてくれるだろうか。  プルタブを引きあげて、口元に運ぶ。ほろ苦い液体が喉を通り過ぎていく。 「――んなわけ……ないか」  すべてを飲み干して口元を拭うと、やるせない気持ちを空き缶にぶつけた。  握り潰したアルミ缶をそっと床に置いて、俺はドアに凭れて天井を見上げた。  滅茶苦茶にしたい……。  壊れるまで抱かれたい……。  そして――純一のすべてを征服したい。  仄暗い欲望がアルコールと共に体内を巡っていく。 「俺はどっちでもいいんだよ……兄貴」  ふっと笑いながら呟いて、力なく目を閉じた。

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