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 月末は何かと残業が続く。  元請けへの出荷確認や請求書の作成、自社倉庫の在庫管理に下請けへの支払いの算段。  たとえ三流企業でもやることはどこの企業も一緒だ。 「――怠いな」  上司に煽られ、経理からは早くしろと追い立てられ、体力も精神も疲れ果てた今日。  週末ではあったが、こんな状態では初対面の相手と駆け引きする余裕もない。  タチの悪い男につかまってロクな目に遭わないことは目に見えている。それならば素直に帰宅したほうがいいと家路を急いだ。  最寄り駅から緩い坂を上がっていくと、マンションの前で抱き合う男女の姿が目に入った。  植え込みに設置された照明が二人の顔を鮮明に浮かび上がらせる。  俺はふと足を止めて、近くにあった電柱の陰に身を隠した。 「――今夜はありがとう。楽しかった」 「いや…。送らなくても大丈夫?」 「タクシ―拾うから……。ねぇ、もう一度キスして…」 「ここで?困ったな……」  照れる仕草を見せながらも、女性の細い腰を抱き寄せて顔を傾けた男性――純一だった。  普段は愛車である高級外国車で通勤しているため、マンションの地下駐車場から直接エレベーターで部屋に上がることが多い彼が、なぜかエントランスの外で女性と一緒にいる。  この場所にいることも不自然ではあるが、何より俺の知らない女性と親密そうに話し、キスを強請られて応えているということが信じられなかった。  確かに――純一は社内、社外を問わず女性からの人気は高いと聞いている。  高学歴、高身長、高収入――少し前に世間で騒がれていた女性の結婚相手に求める条件にピタリと当てはまる。  そんな純一を我が物にしようと躍起になる女性は多いはずだ。しかも三十歳を目前にしたキャリア組などは、ここぞとばかりに食いついて来るに違いない。  何度も唇を啄むようにして離れていく女性は、片手を振りながらヒールの音も軽やかに夜の住宅街に消えていった。  タクシーを拾うのであれば一つ角を曲がればすぐに大通りに出られる。  長い髪を揺らして去っていく女性の後姿を見送る純一を見つめ、俺は小さく息を吐いた。  男にしか欲情しなくなってしまった俺とは違う……。純一は女性を愛する人間なのだということを目の当たりにして、今更ながら自分の浅はかな想いに呆れる。  俺がどう足掻いて、どう誘ったとしても、純一は男である俺になびくことはないのだと……。  分かっていた事なのに改めて気付かされ、また絶望への深みに堕ちていく。  仕事での倦怠感に追い打ちをかけるように、こめかみに走った痛みに眉を寄せる。 「――貴文?」  電柱に凭れたままこめかみに指を押し当てていると、不意に名を呼ばれて息を呑んだ。 「貴文……だよな?どうしたんだ、そんなところで……。一緒に部屋に帰ろう」  柔らかい表情で、まるで捨てられた仔犬に手を差し伸べるかのように近づいてきた純一に俺は牙を剥いた。 「――あの女、家に入れたのか?」  ズキン……ッ。  声を発すると、振動でこめかみの痛みが増していく。  今まで抑えていた何かが決壊し、俺の中で暴走を始める。  顔を歪め、呻くように問うた俺に、彼はふっと肩の力を抜くように笑いかけた。 「まさか……。接待の後で偶然帰る方向が一緒だっただけだ」 「偶然?こんな住宅街にか?どう考えたって不自然だろ……」 「――どうしたんだ、貴文。今日のお前、変だぞ?」 「俺はまともだ。おかしいのは兄貴の方だろ……。どうしてあんな女がいいんだよ」 「貴文……」 「キスとか……してんじゃねぇよ」  トクン……トクン……。  血管が激高する心臓の音をダイレクトに伝え、頭のどこかしこで振動している。  痛い……苦しい…。  ぎゅっと締め付けられる胸の痛みに耐えきれずに、拳を握ったまま胸元を押さえ込んだ。 「――貴文。部屋に行こう」 「キス……してくれよ。あの女にしたみたいに。弟の俺には……出来ないよな?いつもエリート面しやがって……。俺の気持ち……なんて、知るわけ……ない……よなっ」  苦しさに胸を搔きむしるようにワイシャツを掴み寄せた。なぜだろう、震えが止まらない。  あの女が憎い、疎ましい……羨ましい。  こんな俺に優しく微笑む純一が憎い、苦しい……愛しい。  顔を背けたまま唇を震わせている俺。こんな情けなくて惨めな顔は見られたくない。  嫉妬に狂い、それまで抑えて来た想いを押さえ込むことさえ出来なくなった俺を純一は軽蔑するだろうか。 「見るなよ……。俺を……見るなっ」 「貴文……」 「俺は……穢れてる」  一台の車が走り去っていく。ヘッドライトに照らされた俺の顔はどんな風に見えたのだろう。  男を愛した故に女に嫉妬する醜い顔……。  グッと奥歯を噛みしめて純一の言葉を待ち続けた。  辛辣な言葉で突き放すなら今しかない。そうしなければ俺は……もう。 「――彼女の口紅がついた唇でも、許されるのか?」 「え……」  俺の肩をそっと引き寄せて耳元で囁いた純一の声に、俺はゆっくりと顔をあげた。 「こんな穢れた唇で……貴文にキスなんか出来ない」 「兄貴……」 「――いろいろ話したい事がある。部屋に行こう」  純一の言葉に不安がよぎる。 いろいろ――。 さっきの女性とのこれからなのか、それとも……。 数分後に叩きつけられる真実を聞きたくなくて、俺の足は固まったまま動かなかった。 しかし、それを一歩、また一歩……と動かしたのは純一のエスコートだった。 俺の腰に手を回し、体を支えながら歩幅を合わせてくれる。 兄である彼とこれほど近づいたのはどのくらいぶりだろうか。 温かい……。着衣越しではあるが確実に体温を感じる。  ずっとこうしていたい。この腕の中にいたい。  抑えていた感情が溢れると同時に、密かに抱いていた欲望が頭をもたげ始める。 「――すまなかった」  純一の唇がそう動いて、俺は目を見開いた。 「ど……して、謝る…ん…だよ」  すぐそばにある彼の頬がわずかに緩み、薄い唇が自嘲気味に綻んだ。 「いろいろ――とな」  彼が身じろぐたびにふわりと広がる香水と煙草の匂いは、昂ぶった気持ちを落ち着かせていく。  この匂い……いや、彼自身が発する香りが好きだ――昔も、そして今も。

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