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第11話 筆 壱

「ここか…」 隠れ宿、と聞いたはずなのだが、その屋敷は驚くほど大きかった。これのどこが隠れ宿なのかと思ったが、なるほど表札もないし、派手にライトアップされることもなく、人気も感じられない。 ぱっと見、金持ちの老人が悠々自適に暮らす民家に見えなくもない。 僕は指定された桜の枝を持って、屋敷を見上げた。 先輩の勧めでここまでやってきたものの、ここで本当にいいのだろうか。 そもそも、先輩はからかい半分にここのメモをくれたのだ。 「臥待月」。 下世話な言い方をするなら、高級なゲイ風俗。 美大で、僕の絵を見た先輩のひとことが、ことの発端だった。 「塚本、おまえ、こっちじゃねーな」 「あ…あの…?」 「おまえの裸婦、なんか違うんだよ。だからって風景画もさえねえし」 「…すみません」 「怒ってんじゃなくて、もっと違うもの描いたら、きっとすげえもん出来そうなんだけどってこと」 「違うもの…ですか」 「塚本の好きなもの、なに?一番好きで好きでしょうがないもん」 それはあなたですと言ったら、グーで殴られそうだ。僕が男が好きなのを知っても、態度を変えなかった先輩。そんなん、人それぞれだろ、気にしねえよ、と笑ってくれた。ギャルが好きか人妻が好きか、みたいなもんだろ?とも言われた。それは少し違う気がする。 見た目がチャラくて、顔が良くて、スタイルも良くて、女のひとが勝手に寄ってくる、派手な先輩。 授業もそんなに真面目に出ていない。 影で努力をしている様子もない。 なのに、彼が描くものは、観る者全ての魂を惹きつけてやまない。 そんな絵が描きたくて、彼に近づいた。 テクニックを学びたくて、でも、彼はいつもふらふらしていて。 名前も覚えてもらえたかどうか危うい。 ただ、僕の描くものには興味を持ってくれた。そして時々、キャンバスを覗きこみぼそりと呟いてくれる。 そのひとことが嬉しくて、とにかくいろいろ描いた。 風景画、抽象画、吐き気を押さえて裸婦も描いた。モデルさんには失礼だが。 そして、初めて名前を呼ばれて、言われた「何か違う」発言。 僕の好きなもの。 きれいな男性が好きだった。 いわゆるアイドルみたいな、バカみたいに顔がいい男とか。 あんまりマッチョは好きじゃなくて、細身の、少し中性的な男性。 先輩は、そういう意味ではまさにドストライクだった。 だからって、あなたを描かせてくれなんて勇気は出なかった。 でも、お前の好きなもんなに、と聞かれて、僕が答えるまで先輩は許してくれなかった。 「わ…笑いませんか」 「笑わねえって。ほら、恥ずかしいなら」 先輩は僕を指でちょいちょいと呼び寄せ、耳打ちするように促した。 好きです、と告白するよりはマシと、思いきってすごいことを言ってみた。 先輩は、一瞬固まって僕の顔を見た。恥ずかしさで死にそうだった。 言うんじゃなかった、と思った次の瞬間、逆に先輩が僕の耳元でこう聞いてきた。 「塚本って、童貞?」 「どどどどどっっ?」 「いや、そういうことならさ、両方いっぺんにどうにかなるところ、知ってんだけど」 「両方いっぺん?!」 門の前で先輩のことを思い出しぼんやりしていると、からからと格子戸が開いて、僕は飛び上がった。 「お客様?」 どうやら僕は10分ほど、門前で立ち尽くしていたようだ。 時間が過ぎても入ってこない客を不審に思ったに違いない。 それにしても。 世の中には、こういう人種が本当にいるのだ。 「塚本様でございますね。お待ち申し上げておりました」 僕を迎え入れてくれたのは、和服の麗人だった。 青い地に白い小花が散った着物に、黒い帯を腰の低いところで締め、長い黒髪を耳の下でひとつに結わえている。 京なまりの低い声から男だとは分かったが、あまりの美しさに自分の感覚を疑いたくなる。ほんのり赤い唇が、ぞくぞくするほど色っぽい。 麗人に促されるまま、僕は屋敷の中へ足を踏み入れた。 入り口にあった大きな桜の樹は、持ってくるように指定された僕の桜の枝とは、比べものにならない立派なものだった。 長い廊下を案内されて、通されたのは日本家屋の中にあるとは思えない洋室だった。 和モダンというのだろうか。フローリングと畳の間が混在する、おしゃれで豪華な部屋だった。応接セットと、奥に大きなベッドがあってどきっとする。当然と言えば当然なのだが。 緊張している僕に、麗人は正座をして手をついて、ふかぶかと頭を下げた。 「今宵はごゆるりとおくろぎくださいませ」 「あの…僕、こういうところ初めてで、その…」 「塚本さま、どうぞ私どもにお任せください。ご要望にお応えできる準備は出来ております」 「本当ですか…要望って…ほんとに?」 「どうぞ緊張を解いて…僕のことは夕(ゆう)とお呼びください、伊織さま」 急に下の名前を呼ばれて、恥ずかしくなった。友達の少ない僕は、名字でしか呼ばれることがない。こんなきれいな人に名前を呼ばれるなんて。 いつのまにか準備された、赤ワインを勧められ、僕はおずおずと口をつけた。 失礼します、といって夕さんは自分もワインを一口飲み、僕ににっこり笑いかけた。 「美大の学生さん…」 「あ…はい。K大の…」 「普段はどのような絵を描かれるんですか?」 「あ、えっと…風景画とか、裸婦、とか…」 これからお願いすることを考えると、夕さんの顔を直視できない。 しかし、艶やかに微笑んで夕さんは僕の頭の中を呼んだかのように言った。 「ここへいらっしゃったということは…ここでしか描けないものを描きに来られた…ということで、よろしいでしょうか?」 この洞察力、さすがはプロだ。その通りなんだけど、口に出すのは憚られる。 「伊織さまのご希望通りにいたします。どのようにいたしましょう?」 「……男性の…裸が描きたくて…」 「かしこまりました。伊織さま」 夕さんの穏やかな微笑みが、僕の心臓をわしづかみにした。

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