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第14話 夕と陽 弐

「待っ……待って、夕!」 俺の声に、夕は穏やかな微笑みで振り向いた。 「次のお客様は陽をご指名やろ。早よ支度しい」 「夕…さっきのは…どうして…」 若い美大生の客を送り出した朝。 うぶで素直な青年は、俺と夕の抱き合う姿を美しくキャンバスに描き出した。彼の背中を見送る時、普段ならふかく頭を垂れて、姿が見えなくなるのを待たなければならない。 しかし、さっき夕は、俺の顎を持ち、口づけた。 夕は、俺に接客の全てを教えてくれたプロだ。客の好みに応じて、どんなことにも応えてみせる。 高圧的に、従順に、冷酷に、愛情深く…その身体を駆使して、対価以上の働きをする、現代に蘇った花魁、高尾太夫だと、オーナーは俺に教えてくれた。どんなに夕に相手をしてほしくても、夕が首を縦に振らなくては予約が取れない。高い金を払って身請けしても、恋人に操を立てたという高尾太夫になぞらえたのも、どれだけ身体を許しても汚れない高貴さと繋がる部分があり、頷ける。 だからこそあのキスが、俺は嬉しかった。 客の要望で、夕を抱いたのは初めてのことだった。 見せるセックス。緊張する俺を夕が導いてくれた。 「さっきのは…お客様のご要望や。僕と陽が、恋人同士に見える絵を描いてくださったから、それにお答えしたまで…」 「……じゃあ、ベッドの上で俺の名前を呼んだのは…」 夕を抱きながら、俺は次第に仕事を忘れた。うっとりと俺を見上げる夕。 好きな気持ちを抑えて抱くなんて出来ない。 そう思った矢先、俺の目を見て夕が、あき、と呼んだ。仕事中、抱く、もしくは抱かれる客の名前を呼ぶのは定石。昨夜のような特殊なパターンなら、呼ばなくてもかまわない。なのに。 俺は、聞こえた瞬間、堪えられなくなって達した。 「……そないなことしいひん……気のせいや」 「気のせいなんかじゃない…俺はちゃんと覚えてる」 俺は夕の手首を掴んだ。顔をしかめて夕は手を振り払おうとした。 俺は力を入れて、夕の身体を引き寄せた。 「あき…、痛い…」 「夕……はぐらかさないで」 夕は、顔を背けて目を伏せた。 「僕たちはお客様のために、理想的な相手じゃなきゃあかんえ。僕たちのプライベートなんて、お客様は見たくないんや。仕事中に、こんな話しとったら…」 「仕事中じゃなければ聞いてくれるのか」 「…たいがいにしいや。仕事し」 「俺は…本気だから、夕」 夕の手が、俺の胸をぐっと押し返した。 これ以上は聞かないといった様子で、夕は背を向けて歩き出した。 あと数時間で、俺の指名客がやってくる。 俺はたまらなくなって、夕に駆け寄り、背中から抱きしめた。拒絶される覚悟で。 夕が客を迎えるときの、白檀の香り。柔らかな髪に顔を埋めると、その香りが鼻をくすぐる。細い肩と、白いうなじ。首筋にキスをした。 「あき…っ」 夕の身体を強引に振り向かせて、唇を塞いだ。 押し返そうとする夕の手が俺の肩にかかる。でも本気で押し返さないのがわかって、俺はそのまま抱きしめる腕に力を入れた。 舌を割り込ませると、わずかに抵抗されたが、少しして唇が薄く開いた。 俺の気持ちに、ずいぶん前から夕は気がついている。 応えてくれる気配はないまま、仕事で肌を合わせることばかりが増えていく。 悩みを抱えた客を癒しながら、俺と夕の距離は離れていく。 それが耐えられなかった。 あなたが欲しい、と伝えたい。たとえ断られたとしても、この想いだけは。 頬が上気した夕を見下ろすと、少し不愉快な表情で俺を見上げている。 「もう…やめ…本当にこんなん、あかん」 「何がだめなのか、教えて欲しい。……どうして夕を、好きになってはだめなのか…教えて」 「陽は…お客様に接する僕の姿に憧れてるだけや。でももう、陽だって一人前の…」 「憧れだけでこんなこと言わない。…夕は、俺が嫌い?」 自分の胸に引き寄せた夕の耳元で問いつめた。少し間を開けて、夕は呟いた。 「なんで…嫌いになんかならへん…」 夕の瞳はずっと下を向いたまま、視線を合わせてはくれない。薄赤い唇に指で触れると、びくっと震えた。 いつも夕が客にするように、優しく唇の上をなぞる。 「…俺を、見て」 俺は、今度は優しく、夕の唇を塞いだ。夕は、拒まなかった。 唇を離すと、再び力強く俺の身体を押しやった。 「…わかったから…離れて。本当に支度せんと間に合わへんよ。大瀧さまは気難しい方だから、ちゃんと準備せな…」 「わかってる」 俺はそれ以上夕に近づくのはやめた。 夕は乱れた襟合わせを手早く直し、髪をまとめて後ろに流す。 女性とみまごう中性的な見た目。そこから想像出来ない低い通る声。細いのに適度に筋肉のついた身体と、何があっても動じないメンタルの強さ。なのに男に抱かれるときは、征服欲をかき立てる声を上げる。 背中を向け歩き出した夕に、つい今し方俺の腕の中で唇を合わせたときの儚さはない。 俺は夕と反対方向に歩き出した。仕事の準備をしなくてはならない。 「あき」 夕の声が俺を呼び止めた。 振り向くと、夕も顔だけを振り向いて、俺を見ていた。 そして、こう言った。 「…話は、臥待月に…」 新月から19日目の臥待月。 客を取らないその夜は、娼夫のための一日。 夕は、そう言い残し、回廊の奥へ消えた。 臥待月に、夕は応えてくれるのか。 今夜も、客を抱きながら、俺はきっと夕のことを思い出す。

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