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第17話 あなたの記憶 参
次に目が覚めたのは、翌朝だった。
いつのまにか、布団の中でぐっすり眠っていたらしい。訪れた時間を考えても、さほど長い間眠っていたわけではないはずだが、頭はすっきりしている。あんなに激しく乱れたのに、何もなかったかのような清潔な布団。浴衣も新しいものに変えられている。身体にわずかに残る熱だけが、昨夜の記憶を思い出させる。
隣に、陽はいない。
実感する、終わりの時。
いつものように準備された、枕元に畳まれた服をゆっくり身に付け、座敷を出る。
回廊を通り抜ける早朝の空気がすがすがしい。
別れを惜しむように時間をかけて歩くと、その先に人影があった。
夕が、立っていた。
一度だけしか会ったことがなかったが、その存在感は忘れることはなかった。藍色の紬に、浅黄色の帯を締めた夕は、穏やかに微笑み俺を見つめていた。
「大瀧さま」
「夕、か…」
「日本にお戻りにならないと…」
「ああ。世話になったな。…楽しい時間だったよ」
陽が先回って話しているのだろう。常連客に対して最後までぬかりがないのも、この宿の良いところだ。夕は無言で、別れを惜しむように頷いた。
玄関には、一点の曇りもなく磨き上げられた革靴が並んでいた。
帰って行く客の気分を上げ、娼館を訪れたことを忘れさせる気遣いが気に入っていた。
靴に足を入れた。
格子戸に手をかける前に、思い切って振りむく。
やはり陽はいない。会えば、俺が苦しくなるのを知っていて、あえて姿を見せないのだろう。その方が好都合だ。
年甲斐もなく、目頭が熱くなる。
「ありがとう」
礼を言った。夕は無言で深く頭を下げた。
格子戸を開けると、さわやかな風が俺の身体を通り抜けて行った。
歩きだそうとして、目を疑った。
門に続く石畳にびっしりと敷き詰められた、白い薔薇の花びら。
昨夜屋敷中を飾っていた薔薇だろう。訪れたときには、今日で最後になるとは告げていなかったのに。
胸にこみ上げるものを抑えながら、俺は足を踏み出した。
一歩進むたび、花びらが舞い上がる。
鼻腔をくすぐる、甘い香り。
門を出る前に、大瀧さま、と呼ばれた気がして振り返った。
格子戸の前で、陽が頭を下げて見送っていた。
「忘れない」
気がついたら、声に出していた。
迎えの車に乗った自分の肩に、白い薔薇の花びらがひとひら、寄り添うように乗っていた。
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