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第18話 道しるべ 壱

隠れ宿「臥待月」、車椅子の主人に付き添うかたちで僕は訪れた。 新月から18日、座って月の出を待つ、と言われる居待月。この月の出る夜を好んで、僕の主人はここへやってくる。 ただ、いつも付き添うのは第一秘書の伊東氏で、僕が選ばれたのは初めてだった。 小さな灯りのついた門をくぐると、明るい月の光に照らされて、見事な夜桜が浮かび上がる。不気味なぐらいに美しいその桜のしたに、彼がいた。 背中を覆う長い艶やかな黒髪と、今夜の空のように深い藍色の着物に、月の光のような玉虫色の帯。 主人の顔を見ると、彼は花が開くように微笑んだ。 「お待ち申し上げておりました」 「夕。今日も美しいな」 夕(ゆう)と呼ばれた彼は、車椅子の高さに膝を折り、うやうやしく主人の手を取った。 僕が仕える主人の相楽丈一郎(さがらじょういちろう)は、この「臥待月」のオーナーである。 そして僕は、相楽 晴登(さがらはると)。実子のいない彼の、養子だ。 「本日は…晴登さまをお連れに?」 「ああ。こいつはまだ世間を知らんのでな。勉強させてやってくれ」 養父に紹介され、僕は深く頭を下げた。噂には聞いていたが、当然会うのは初めてだった。 夕さんは艶やかに微笑み、夕とお呼びください、と言った。 長い回廊を抜け、もっとも奥にある洋室へ通された。 養父を車椅子から豪奢なビロード張りのカウチに腰掛けさせると、タイミングを見計らったように、ワインとグラスを持った夕さんが入ってきた。 養父の分の他に、僕の分のグラスも用意されていた。 「オーナー、本日はどのような…?」 夕さんは養父の隣に座った。僕はテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした。養父は夕さんの腰を抱き寄せ、ご満悦の様子だった。 「そうだな…最近、いい硯を手に入れてな」 「書、でございますか」 「ああ。行書がいいと思うのだが」 「かしこまりました」 さっぱり話が見えない。確かに養父は書の達人で、最近、特に気に入った硯を新調したばかりだ。 しかしここは、高級娼館ではないのか。わざわざここで得意の書を見せつけるつもりなのかといぶかしげに思っていると、養父が鼻で笑った。 「分からん、という顔だな。まあ、見ていろ」 夕さんは僕たちが話しているうちに、一度部屋を出た。 僕の養父は、若い頃は有名な実業家だった。交通事故で足が不自由になってからは一線は退いたものの、未だに配下の企業には頻繁に顔を出し、経営の実権は彼の手の中にあると言っても過言ではなかった。 形ばかりの妻との間には子供がなく、僕を含め、3人の養子がいる。 表向きには伊東と名乗り、第一秘書となっている相楽 弓(さがらゆづる)が長男。 実質の跡取りと言われる相楽 亘(さがらわたる)が次男。 そして、特に何の期待もされない僕が、三男の晴登。 僕たち兄弟は、誰とも血が繋がっていないが、そこそこ仲がいい。きっと誰も、養父の遺産に執着がないからだろう。 養父は、少し古風な言い方をするなら、男色家だ。だから子供がいない。 『え、僕が?』 長男の弓は申し訳なさそうにうなづいた。その横で、いつものにやにや顔で次男の亘がこっちを見ている。  『悪いな、晴登。どうしても外せない会議があるんだよ』 『いいじゃないか、ついでに筆おろししてもらったら』 弓と亘が立て続けに喋るので、言葉を挟む隙がない。そして亘は、相変わらず一言多い。 『亘…だから僕はそういうのは…』 『はは、そんな嫌な顔するなよ。ま、そうじゃないとしても、あそこは一回行っておいた方がいいよな、弓?』 『経験を積むという意味ではな。晴登は…女性は苦手なんだろ?』 長男の弓は、物言いが穏やかだ。ゲイ、とストレートに言わないところに、思いやりを感じる。しかし亘がそれをやすやすと踏みにじる。 『そーだよなあ、ゲイのお前にはうってつけだよ。あそこにさ、えらいテクニシャンの男娼いるらしいよ?』 『亘、そういう言い方は…』 『ああ、はいはい、すみませんね。まったく弓は上品だよなあ。ま、晴登、せっかくだから楽しんで来いよ』 結局正反対の兄ふたりに背中を押される形で、僕は養父に付き添うことになったのだ。 そんなことを思い出していると、黒い肌襦袢を見につけた夕さんが螺鈿の箱を手に、部屋に戻ってきた。 きらきらと輝くその箱の蓋を開けると、硯と筆が入っていた。 驚いたのは、その硯が養父が購入したばかりのお気に入りのものだったことだ。 夕さんは、その箱を養父の側に置いた。 養父はおもむろに、その硯で墨を磨りはじめた。 何が始まるか分からず立ち尽くす僕に、夕さんが言った。 「晴登さま…お手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか…?」

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