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第21話 夕と陽 参
新月から19日目の夜。
その日の朝には、お互いの馴染みの客を送り出した。
俺は、長年可愛がってくれた客が海外赴任になり、別れを惜しんでくれる彼に壊れるほど抱かれた後だった。
夕の客は、臥待月の前日、いつもこの時期にやってくる、オーナーと、その息子。
本来は、俺が客を取る満月から三十日月まで夕は休みだが、オーナーだけは特別だった。
そして昨夜はいつもの長男の弓さんではなく、三男の晴登さんを連れてきた。
それが何を意味するのかは、俺にはわからない。
客を送り出した俺は、やっとの思いで部屋に戻り、気がついたら着替えもせず眠り込んでしまったらしい。
組み敷く方の注文が格段に多い俺には、昨夜の出来事がかなり身体に負担をかけていた。
夕がどこにいるのか、この間の返事を聞けるのか、そんなことを考えながらも、睡魔には勝てず、瞼を閉じた。
目を覚ました時、部屋は暖かく、着替えずに寝てしまったはずなのに、新しい浴衣を着せられていた。まるで客をもてなすような待遇に俺は部屋を見渡した。
脱いだ着物はきちんと衣紋掛けにかけられていた。目が覚めたときに飲めるように、ベッドサイドには水の入ったタンブラー。
そして、わずかに残る白檀の残り香。
身体を起こすと、いきなり天井と床が逆回転した。
「陽!」
めまいを起こした俺の耳に、夕の声が聞こえた。
「あかん、まだ寝とき…」
ひんやりとした夕の掌が、俺の頬を包み込んだ。額に当てて、熱をみてくれる。前髪を避けて、夕の顔が近づいてきた。
額同士を合わせると夕は、ふう、とため息をついた。
「熱は…下がった。せやけど、まだ…」
「俺、熱が…?」
「大瀧さま、最後にぎょうさん可愛がってくださったんやな…陽がこんなになるなんて…」
夕はいつも、抱かれる側として客を取る。このくらいのことは、日常茶飯事なのかもしれない。俺は少し情けなくなった。
「このくらいで…面倒をかけて、ごめん」
「陽はタチなんやから、当たり前や。それより、少し食べないと」
ふらつく俺を支えて、夕は食事を用意したテーブルへ連れて行ってくれた。
休みの今日は、料理人も清掃員もいない。用意された食事は夕が作ってくれたものだった。
夕は、料理が上手い。何度か食べさせてもらった食事は忘れられない。
旬の野菜の具だくさんのスープは、優しい味がした。
向かい合って座る夕は、薄灰色の紬に萌黄色の帯を締めていた。洋服を着ているところはまだ見たことがない。髪はいつも後ろで一つにまとめている。客の相手をするときに解くのは、その方が客の気持ちを煽れるからだと言っていた。
「口に合わんかった?」
スープを飲む手が止まってしまっていたのを、気にして夕が言った。
「ううん、美味しいよ。…ちょっと見とれただけ」
俺の言葉には答えず、夕は微笑んだ。もし体調が悪くなかったら、笑ってくれなかったかもしれない。
忘れているだろうか、この間、本気だと言ったこと。
俺の頭はずっとそのことばかりだったけれど。
「夕…聞いていいかな」
はぐらかされると覚悟して、俺は尋ねた。どうしても聞きたかった。
「この間、話は臥待月に…って…」
「せやね…」
思いのほか、あっさりと夕は答えた。体調の悪い俺を気遣ってのことだと思うが、返って好都合だ。
「理由を聞かせてくれないかな。この間聞いたこと」
夕は、少し困ったように微笑んだ。
夕がオーナーを迎える日は、明らかに他の客を取る時と様子が違う。
足が不自由で、実際に夕を抱くことはないらしいが、一晩の間何をしているのかは、俺には知ることはできない。
それでも、他の客や俺には見せない表情で、夕はオーナーを迎える。
それは、花が開くような艶やかさで。
深い間柄であったのだろうとは予想出来た。
俺が詰め寄るたびに、仕事を盾に拒絶する夕は、おそらくオーナーに対して、恩義以上の感情を持っている。もちろんオーナーの方も。
だとしたら、オーナーがいるかぎり、夕は俺を受け入れてくれないということなのか。
「陽…」
「俺は…本気で夕が好きだ。尊敬もしているし感謝もしてる…でも、それより、夕の特別になりたい…どうしたら、俺を見てくれる?」
「僕の特別になんかなったって、ええことなんかあらへんよ」
「……誰か、もう特別な相手がいる?」
「…僕はこの仕事を大切にしたい。特別に想う人を作ったら、感情がぶれてまう。お客様を、その人に重ねてしまうかもしれん」
「だけど…ずっと一人でいるつもりなのか」
「今は…まだ…そうやね」
「俺の気持ちは、夕の邪魔になってる?」
「そんなことあらへんよ。……嬉しい…けど…」
夕は目を逸らし、言葉を濁した。少し照れたような横顔が、俺の気持ちを後押しする。完全に拒絶されているわけではない。ただ、今はまだ時期じゃない、ということか。
俺を見ないようにしたまま、夕は言った。
「身体で人を悦ばせることしか出来ん僕に、オーナーが作ってくれたこの「臥待月」が、僕の全て…ここは僕の生きがいや。誰か一人のものになることは、避けよう思うとる」
「……オーナーは、夕の、何?」
夕の片眉がぴくりと上った。視線が戻る。
じっと俺を見て、低い声で言った。
「何って?」
「オーナーと夕は、特別な関係?」
「……嫌な言い方やな。雇い主なんやから、オーナーが特別なのは当たり前やないか」
「…それだけじゃないことぐらい、見ていたらわかるよ」
「だったらなんで、聞くん」
「…あの時俺を…呼んだのは…臥待月に話そうって言ってくれたのは、ほんの少しでも、俺に心を開いてくれたと思った…それは、俺だけの勘違い?オーナーと夕の間には、誰も入れない?」
テーブル越しに手を伸ばして、夕の手を握った。
振り払われると思ったが、そうはならなかった。
かわりに夕は、小さく呟いた。
「……になったら、溺れてまう」
「え?」
「……何でもない。とにかく、今は仕事が大事やから」
溺れてまう、と聞こえた。
それは、何に?
それは、誰に?
俺は苦しまぎれに、言ってはいけないことを口に出した。
「……オーナーは大切な夕に他の男の相手をさせて、平気なのか」
「陽!」
夕は俺の手を払って立ち上がった。激昂する夕を、始めて見た。
すぐに自分自身の行動にはっとして、着物の衿を正して夕は座り直した。
言いすぎたことに気づいた時にはもう、遅かった。
「そないに思っとったんなら、今すぐここを辞めて出ていったらええ」
「夕、違う、そんなつもりじゃ…」
「僕のことはどうでもええ。オーナーのことを尊敬できないなら、ここで働く必要ないやろ」
夕の心が一気に閉ざされていくのを感じた。思わず立ち上がった。
「違う…ただ俺は嫉妬して…」
夕は冷たい瞳で俺を見上げていた。ここで怯むわけにはいかなかった。
「オーナーを尊敬してないとかじゃない…ただ夕が…俺には手が届かなさすぎて、どうしたらいいかわからなくて……ごめん、本当に…」
急に立ち上がったからか、まためまいが襲った。テーブルに手を突いて、俺はどさりと椅子に腰を落とした。
「陽!」
夕が立ち上がって、駆け寄ってきた。目の前が暗くて、夕の声が聞き取りにくい。
「無理したらあかん…もう少し休み」
「夕…ごめん…夕…」
「……もう、ええから」
夕の肩を借りて、ベッドに戻った。枕に頭を埋めると、夕が顔にかかった髪をさらりとよけてくれた。
その瞳にもう、あの冷たさはなかった。俺は額に触れた夕の指を掴んだ。
夕は、子供を寝かしつけるように布団の上に手を置き、話しはじめた。
「オーナーは…僕の命の恩人で、父親のような人。生きていくための方法を教えてくれた人や。陽が思っているような…相手やない」
やっと夕が微笑んだ。
俺はぼんやりする頭で、自分の言ったことを後悔していた。
夕の大切な記憶を傷つけてしまったこと。そしておそらく、そこには決して追いつけないのだと、思い知らされた。
でも、あの一言が頭から離れない。
溺れてまう、と。
その言葉を、勝手な解釈で期待している自分がいる。
夕に、近づきたい。
眠りに落ちる寸前、夕の独り言のようなつぶやきが聞こえた気がした。
「どうして君は僕なんかを…好きだと言ってくれるんかな…」
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