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第22話 夕と陽 四
「あきさん、陽さんっ!来てください!夕さんが…っ」
それが起きたのは、俺が倒れた一週間後のことだった。
新月の夜、私服に着替え帰宅しようとしていた俺を、清掃員の女性が必死の形相で呼んだ。
夕は二時間前から馴染みの客を取っていた。
大学教授で、無口で上品な紳士。そんなイメージの客。
問題を起こすようなタイプの客ではない、はずだった。
座敷を開けると、腰に刃物を突き刺されて真っ赤な血の中でうずくまる夕がいた。客の姿はどこにも無かった。
畳の上には、血液を踏んだことに気づかず、客がつけたであろう足跡が残されていた。
すぐに清掃員の女性にオーナーに連絡を入れさせ、夕に駆け寄った。
警察や病院に連絡を入れてはならないことになっていた。客の中には政界の大物など、ここに来ていることを公に出来ない人物がいるからと、夕が教えてくれた。
「ぁ…き…」
かすれた声で、夕が呼んだ。刺さった刃物を抜いてはいけないことぐらいは知っている。しかしどうすることも出来ず、膝ががくがく震えているだけだった。
気を失いかけた夕の手を握り、名前を呼びかけることしかできないまま、数分が経った。
どたどたと廊下を走る足音が近づき、スパン、と勢いよく襖が開いた。
大きな革の鞄を持った背の高い男が立っていた。髪があちこちに跳ねて、無精髭を生やし、黒いエプロンをしたその場違いな男は、俺を乱暴に押しのけ、夕に近づいた。
「あんた、免許は」
男が振り返り、俺に聞いた。
「えっ」
「車運転出来るかって聞いてんの!どっち?」
「で、出来ます!」
「じゃあすぐ表に回せ!ここの専用車!」
わけがわからないまま、俺は裏口から飛び出し専用車であるベンツを入り口の前に付けた。車を停めるやいなや、後部座席のドアが開き、夕を抱えたさっきの男が乗り込んだ。そして叫んだ。
「ナビの1番、急げ!」
言われるままにナビの一番最初の番号に記憶されている場所に向かって車を走らせた。
後部座席では、もはや気を失った青い顔をした夕を、見知らぬ男が抱き抱えている。この男が誰なのか、警察を呼ばなくていいのか、俺の頭の中は混乱を通り越して、受け入れられなくなってきていた。
気がつけば、泣きながらハンドルを切っていた。
「名前は」
男は名乗りもせず言った。
「は、波多野です」
「男娼か」
「そうです。あの、あなたは」
「あそこの非常勤職員みたいなもんだ。医師免許を持ってる。こういう時のためにな」
「医師…」
「だから心配すんな。かならず助ける」
俺は涙を手の甲で拭って、アクセルを踏み込んだ。
ナビの通りに運転して着いた場所は、病院ではなく、郊外の大邸宅だった。医師だという男についてその家に入ると、オーナーの相楽丈一郎氏と、三男の晴登さんが待っていた。
「京一郎、夕は……夕は無事かっ」
オーナーの聞いたことのない声が、最悪な状況を思い出させた。京一郎と呼ばれた男は、説明もそこそこに準備された部屋へ夕を運び、ドアを締めた。部屋の中には簡易な手術室のような設備があり、数人の女性が待機しているのが見えた。
「波多野さん、ですね」
ドアが閉まると、晴登さんが近づいてきた。会ったことはないはずだが、俺を知っている顔をしていた。
「相楽晴登です。経緯を…お聞かせいただけますか」
オーナーは不機嫌な顔をして、俺と晴登さんの会話を聞いている。
俺は自分が見たもの全てを彼に伝えた。客の素性や宿を利用した頻度など、犯人と思われる男のことについても、事細かく。
「あの…、先ほどの方は…」
俺が夕の入っていった部屋のドアを見ながら尋ねると、ずっと黙っていたオーナーが口を開いた。
「あれは私の弟だ。そこらの大学病院の教授より腕のいい医者だから、夕は大丈夫だろう」
「オーナーの…」
「それにしても、夕ほどの男がどうしてこんな…、お前、何か知っているか」
「何か…ですか」
「夕が接客中に刺されるような隙を見せるとは思えん…最近、何か変わったことはなかったか。夕の気持ちが揺らぐようなことは…」
夕の気持ちが揺らぐこと。そう聞いて、一週間前の出来事を思い出した自分は自意識過剰だろうか。
どうして君は僕なんかを好きになってくれたんかな、と、聞こえた。
過去に何があったかは知る由もないが、それでもほんの少し、夕は俺のことを意識していたと思う。
だけど、まさかそれで接客中に刺されたことに繋がるとは思えない。
「特に、思い当たることはありません」
「…ならいい。どのみち刺した奴の素性はすぐ明らかになる。しばらくの間、「臥待月」は閉めるぞ。その間の生活は保障してやるが…他言無用だ」
「はい。…あの」
「何だ」
「手当が終わるまで、ここに居させてください」
「…かまわん」
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