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第24話 夕と陽 六
(田宮さま、何を…)
(大丈夫、ほんの少しだから、怖がらないで…これでもっと気持ち良くなるだけだよ)
(おやめください、人を、呼びますっ)
(無駄だよ、もう効いてきてるだろう?すぐ良くなるから)
(嫌っ……やめ…っ…)
(その取り澄ました顔が、ぐちゃぐちゃになるのが見たいんだよ。ほら、じっとして…)
(嫌、嫌やぁっ……っかんにんっ…してぇっ…)
(いいね、その、素の感じ…可愛いよ、夕。どう、効いてきたかい?)
(い…やあっ…助けてっ…助けて、誰かっ……あきぃっ…)
一時間後、ドアが開いて、相楽京一郎が疲れ切った顔で出てきた。
俺と晴登さんは同時に彼を見た。
「夕はっ…」
思わず大きな声を出した俺に、シッと人差し指を立てて彼は制した。
「寝てるんだ。静かに」
「す…すみません」
「傷は思いのほか浅いから、そっちのほうは心配ない。問題は…」
京一郎さんは頭をかきながら、周りにオーナーがいないことを確認した。
「媚薬を注射されたっぽいな。時間が経てば尿として排出されるから大丈夫だが、いかんせん量が多い。最低な客だ…」
「媚薬…!」
「それでなぜ刺される展開になったのかはわからんが…晴登、丈さんにはこの件はまだ言うなよ」
晴登さんはうなづいて、携帯を取り出した。席をはずします、と言って長い廊下を歩き出した。オーナーに連絡を入れているらしかった。
「あんた、夕の同僚だったな。波多野くん、だっけ」
京一郎さんはあの状況で名乗った俺の名前を覚えていた。
「はい」
「…下の名前は?」
「あき、と言います」
「…ああ、じゃあ、あんたのことだな。そろそろ目が冷めるだろうから、夕の側にいてやってくれるか」
「あの…?」
「朦朧としながらあんたの名前を呼んでた。…晴登、あとは頼んだぞ」
「俺…?」
電話を終えて戻ってきた晴登さんに言い残して、京一郎さんは屋敷を出て行った。晴登さんも彼を送るために、一度外へ出た。
オーナーはまだ自室へ戻ったままだ。
ひとりになった俺は、そっと夕が眠る部屋のドアを開けた。
蒼白な顔で昏々と眠る夕。考えてみれば、夕が眠っている姿を見たことがなかった。「臥待月」の支度部屋でも、気を緩めることはなかった。
ベッドサイドに腰をかけると、わずかに胸が上下するのが分かる。
簡単な設備とはいえ、腕に繋がれた点滴スタンドや、ナースコール用のボタンみたいなものがある。京一郎さんは、本当に医者なんだとわかった。
刺された傷は深くない言っていた。
しかし媚薬を打たれたと。
怒りがふつふつと沸き上がる。
打たれたのがもし自分だったら、蹴り飛ばしてやれたかもしれないのに。
どうして夕が。
こんなに「臥待月」を、客を大事にしてきた夕がこんな目に合うなんて。
悔しすぎた。
勝手に涙がこぼれ落ちる。
夕を起こさないように声を殺して泣いた。
「…あ…き?」
夕の声が、俺を正気に戻した。あわてて涙を拭った。
目を覚ました。まだ青白いが、確かに瞼が開いた。思わず叫んだ。
「夕!」
俺の声を聞いたのか、晴登さんがオーナーの車椅子を押して入ってきた。
ベッドサイドに付けた車椅子からオーナーが手を伸ばす。夕の頬に触れるその姿は、まるで父親だった。何も言わず、黙って頬をさすっていた。
晴登さんは、顔を背けて、光るものをそっと拭った。
夕は、愛されている。
だけど、この人たちに敵わなくてもかまわない。
俺も、夕が大切で、ずっと側にいたいと思っている。
たとえ苦し紛れだったとしても、夕が俺の名前を呼んだなら、俺はそれに賭けたい。
夕は目を覚ましたが、まだ動かすことは出来ないということで、そのまま相楽邸で療養することになった。
俺はその間、事件のあった「臥待月」に戻り、血の付いた畳や床板の張替に立ち会い、予約客に休館の連絡を入れた。
あの部屋に入ると、怒りが沸いてきた。
オーナーに連絡をして、その部屋の内装を全て変えて貰うように頼んだ。
料理人や清掃員にしばらく休みになることを詫びると、口々に夕を心配し、対応に追われる俺を気遣ってくれた。
夕とふたりで帰ってくるからと言ったら、みんな泣いた。
それから二週間が経ち、夕は起きて歩くことが出来るようになった。
そのころ、俺はオーナーにひとり呼ばれた。
「え…」
「あいつを一人にしておくのが不安でな。ここなら安全だ」
オーナーは、夕を相楽邸に住まわせると言った。
「完全に傷が治ったとしても「臥待月」には…夕は戻らん」
「そんな…」
「おまえもそろそろ、一人で回せるだろう。夕はお前の年には、一人で切り盛りしていたぞ」
「夕は…それでいいと言っているんですか」
「…復帰したいと言ってる。だが、今回は、私の決断に従わせる」
オーナーは厳しい口調で言い切った。
有無を言わさぬ雰囲気に怯んだが、これを受け入れたら、多分俺は二度と夕に会えなくなる。喉が無意識にごくりと鳴った。
俺は椅子から飛び降り、オーナーの車椅子の前で土下座をした。
毛足の長い絨毯に頭を付けて、俺は叫んだ。
「オーナー、どうか…聞いてください!」
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