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続・中編
食事を済ませ、レジの前で清算していた俺たちの後ろに小柄な男が立っていた。
俺を見上げる少女めいた顔には、苛立ちがありありと浮かんでいる。その男から無意識に視線をそらせば、そこには見たこともない冷たい表情を浮かべる樹がいた。
「俺たちに、何か用?」
「随分と冷たくしてくれるじゃない。ほんの数か月前には、激しく情熱的に抱いてくれたのに」
その言葉に体を跳ねさせたのは、樹でなく俺だった。
「い、いつき……」
「じゃあ裕太くん、行こうか。この後は俺の家で飲みなおそう、美味しいツマミも買ってあるから」
「え……あ、」
「さあ、行こう」
樹が俺の腰に手を回す。そのままエスコートして店を出ようとすれば、絡んできた男はそのアーモンド形の目を更に吊り上がらせ、俺の腕を強く掴んだ。
「待てよ! やっぱりアンタ、あの〝裕太〟なんだろ!? アンタには言いたいことが山ほどあったんだ」
「え……」
「いつもいつも、イイトコロでいっくんのこと呼び出しやがって! 何度僕らのセックスを邪魔したと思ってんだよ!」
「ちょっとマキ、いい加減に」
樹が、俺の腕を掴む男――マキを引き剥がそうとする。その腕を、拒むようにして遠ざけたのは無意識だった。樹の眉が顰められる。
「裕太くん……?」
いい加減、マキの大声で店中から視線が集まっている。その視線に込められる嫌悪に、胃袋がぐるぐると回るような感覚を覚えた。
「俺が、あんたらの……?」
「そうだよ! アンタがいつも勝手に呼び出すから、僕が何度イきそびれたと思う? 僕は……」
「マキッ!」
マキがそこまで口を開いたところで、ついに樹がマキの胸倉を掴み店の外へと引きずり出した。俺は、喉元が苦しくて、気持ち悪くて、なかなか動けない。必死に店の外まで出ると、樹がマキを思い切り突き飛ばしたところだった。
「どうして!? 僕ら上手くやってたじゃない! 勝手に終わらせるなんて酷いよっ!」
「君とは終わる以前に、なにも始まってなんかいない。どういうつもりで声をかけてきたか知らないけど、二度と俺たちに関わってこないで」
「いっくん!」
「最後まで言わないと分からないの? 君は数ある、都合のいい道具のひとつにすぎなかったの。君に思い入れなんて少しもないんだよ」
「な……」
「消えてよ、今すぐ。……俺たちの前から消えろ!」
あの優しい、穏やかな樹の、聞いたことのない怖い声。マキは、そのまま慌てて走って闇夜に消えていった。
「裕太くん、大丈夫? 歩ける?」
店の入り口で呆然と立ち尽くす俺に、樹が優しく寄り添う。いつもならドキドキするその温もりが、どうしてか今は全身に悪寒を走らせた。
「うっ、ひ……うぐっ!」
「裕太くん!」
喉の奥から何かがせり上がる。止めることなどできなかった。店の前から逃げるようにして裏道に走り込むと、堪えきれなくなったものを吐き出した。
「ぅええぇええっ、うっ、うぇええぇっ」
「裕太くんっ、大丈夫!? 裕太くんっ」
「ぃやっ、だ……うっぅえぇっ」
心配して、俺の背中を摩る樹の手を拒む。それから暫く、胃液しか出なくなるまで俺は吐き続けた。
その後は、家まで送ると言った樹を拒みひとりタクシーに乗った。走り去るタクシーの窓から見た、置き去りにされた樹の顔。そこからはなんの感情も読み取れなかった。ただ虚ろな瞳で、去っていく俺を見つめ続けていた。
家に着いた頃から、携帯が何度も何度も震えている。だけどそれに答えてやる気にはなれなかった。樹の声で呼ばれた『マキ』という言葉が頭から離れない。あのマキも、俺と同じように……樹の熱を与えられていたのだ。それも、俺よりももっとずっと前から。
いつだったか調べたことがある。男性同士の関係には、一夜のものが多いのだということを。だから樹にも、そういった相手がいただろうことは考えずとも分かっていた。気にしてはいけないのだと、大切なのはこれからなのだと、そう考えるようにしていた。だがどうだ、樹はあの男の事を名前で呼んだのだ。
たった一夜の相手の名前を、しっかり覚えているものだろうか。いいや、違う。マキは言っていた、『何度もイイトコロの邪魔をした』と。一夜だけでなく名前で呼び合い、何度も肌を重ね合わせる相手が……本当に思い入れのない相手なのだろうか?
確かに流されるように始めてしまった関係だった。それでも、付き合うことになってからは樹をちゃんと恋人だと思っていた。友人としてではなく、恋人として大切だと思っていた。
急激に変わった関係性に戸惑いはあれど、嫌な気持ちになど一度もならなかった。樹が離れていってしまうことの方が、男同士で付き合うことよりも余程恐ろしいことだと思ったのだ。
「浮気じゃないんだけどなぁ……」
マキとの関係は、きっと俺と付き合う前の話だ。樹が浮気などするはずがないと、信じている。でも……。
「うっ、うぇ……」
自分が与えられてきたあのふたりだけの快感を……あの小奇麗な男、マキも知っているのだと思うと。どうしても、吐き気が止まらなかった。
「おいおい、何なのどうしたのよ葉桐。昨日はあんなに調子良さそうだったのに」
隣の席の野村が顔を引きつらせる。
「ちょっと胃の具合が悪くてさ……」
「飲み過ぎかー?」
「いや、全然飲んでないけど、ちょっとね……」
またなにか問題でも起きたんだろうと、察した野村は早々に俺から目を逸らした。やはり面倒ごとには巻き込まれたくないようだ。
「今日は金曜だし、きりの良いところでさっさと上がってよく寝るんだな」
「ああ、そうするよ」
「調子戻ったら、また合コン行こうぜ!」
面倒臭がりだが、それなりに気にしてくれているのだと分かる。相変わらずの合コン三昧な野村に笑いが込み上げ、お陰で少しだけ気分が軽くなった気がした。
「見つかって良かったよ」
自宅の最寄り駅で俺を捕まえたのは、樹ではなく……アーモンド形の目をした男、マキ。セーラー服の方が似合いそうなその体には、しっかりと男性用の服を纏い、モッズコートを羽織っている。
せっかくの野村の気遣いが一気に無駄になった。
「俺になんか用ですか?」
思わず声が固くなった俺に、マキの口端が持ち上がる。
「ちょっと付き合って欲しいことがあんの、来てくれる?」
「……どこですか」
マキは少しだけ黙って俺を見つめると、コートのポケットへ乱雑に手を突っ込んだ。
「アンタを見せたい人たちがいんの。つべこべ言わずについてきなよ、どうせアンタも僕のことが気になってんでしょ?」
そのまま歩き出したマキ。数秒してから大きく深呼吸すると、俺はその小さめの背中の後を追いかけた。
「いやぁぁあぁ!! あのいっくんの恋人がコレ!? コレなの!? こんな何の変哲もない子が!? そんなのアタシは認めないわよ~!」
俺の目の前で失礼なことを叫ぶのは、今着ているフリルの付いたワンピースよりも、余程軍服の方が似合うであろう厳ついガタイをした坊主頭の男だ。
マキに連れてこられたのは、多分だが所謂そういう人たちが集まるバーだった。半ば強制的に店に押し込まれ、カウンターに座った途端、コレだ。いくら何でも俺だって眉間に皺が寄る。
周りからも「アレ、いっくんの恋人らしいよ」とヒソヒソ話す声が聞こえてくるあたり、樹はこの界隈で有名人らしい。あの容姿なのだ、相当人気があるのだろう。
「アンタ、雰囲気からしてノンケでしょう? あ、ノンケって意味わかる?」
「分かります。多分そうだと思います、男はアイツにしか興味ないから」
「あらやだ、割りとアピール強いじゃない。でも、あのいっくんと付き合う覚悟はできてるの?」
「〝あの〟って? 男同士ってことなら、付き合う時とっくに……」
「違うわよー! なに、アンタいっくんがどういう人なのか知らないで付き合ってるの?」
俺よりも、自分たちの方が樹のことは詳しいとでも言いたいのだろうか。先ほどから言い方が妙に癇に障る。
「あの、凍てついたいっくんと付き合うなら相当の覚悟がいるわよ、って言ってんの」
「凍てついた……?」
「ゲンちゃんからも言ってよ、僕の方がよっぽどいっくんに相応しいってさ!」
「アンタにも相応しいとは全く思えないけどね。まあ、何度も相手してもらえただけ珍しいわよね」
「でしょ!?」
マキが樹に触れられていた事実が再び突き刺さり、胃がキリリと痛んだ。
「一度の逢瀬で、セックスは一度きり。挿れて出したらそれでお終い、ピロートークはなし。甘い雰囲気なんて皆無だし、デートなんてもってのほか」
「……え?」
「あの氷の王子様と、普通のお付き合いができると思ってるなら大間違いってことよ。ワガママなんて言った日には即切られてセフレにもなれないから、いっくんの相手はみんなそれを飲んできたわけよ。冷たくたってなんだって、あの容姿じゃない? せめて一夜だけでもって、みんな相手にしてもらうのに必死だったわけ。まあ、ゲイの世界じゃああいうツレナイ態度の子は珍しくはないけどね、ノンケのアンタには荷が重いんじゃない?」
「そうそう、普通に女の子と付き合って、おてて繋いでデートでもしてればいいんだよ。いっくんのことは僕が面倒見てあげるから」
ふたりの勝手な言い分に腹が立つ。どうして第三者にそんなことを言われなければいけないのか。付き合うことだって、他人にどうこう言われる筋合いはない。俺と、樹の問題なのだから。だが、他人から首を突っ込まれる不快感よりも、疑問の方が大きく湧いてしまう。樹のどこが、凍てついてるのだろう。
「俺はアンタたちの言ってることの意味がよく分からない」
「ほら、だからノンケには……」
「樹が凍てついてるって、どこが? アイツはすげぇ優しいし、熱い男だよ」
毎日会いたいと、その辺の女の子よりも乙女なことを言ってくるし、一度の逢瀬でセックスが一度きりなんて大嘘だ。一度抱き始めたら、俺が過ぎる快楽に泣いて嫌がっても、意識を飛ばしても中から抜けていってはくれない。好きだよ、愛しているよ、そう囁いては俺を抱き潰す。
「次の日が休みの時なんて、飯とトイレ以外ずっと俺の中に入ったままだよ。風呂でもヤりたがるし」
ゲンが飲んでいたジンをブッと噴出した。
「う、嘘よ……そんな話きいたことない。それにアンタ、樹って呼んでるの……?」
「嘘だ! いっくんは淡泊なんだからそんなはずないッ!」
「毎日ヤりたがる奴のどこが淡泊なんだよ」
デートだってする。映画はよく観に行くし、この間は水族館にもいった。暗がりでは必ずキスなどの悪戯をされて、人目を気にする俺は思わず怒ったりもしたけど……握り締めた互いの手の温もりが溶け合う感覚は心を満たしてくれた。
「俺たちはちゃんと付き合ってるよ。アンタらに心配してもらうことなんて、一個もない」
俺は目の前に義理で出されていた水を一気に飲み干し、スツールから尻を下ろした。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、ちょ……」
去ろうとする俺に、ゲンが慌てたその時だった。
―――ギィィ
バーの、少し重めのドアが開く。そうしてそこから現れたのは……。
「樹……なんでここに」
「裕太くん、帰るよ」
昨日の夜に見た、感情の全く浮かんでいない顔。ゾッとして、思わず掴まれた手を振り払ってしまった。
「あ……わり、あの」
振り払われた手を、無言で見つめる樹。その視線が、手から別のモノへと反れる。その目つきに、ごくっと誰かが唾を飲み込んだ。
「……裕太くんを、こんなところに連れて来たのは……きみか」
睨み上げられたマキが体を跳ねさせた。
「わ、分からせてあげようと思ったんだ! 僕らと彼じゃ、住んでる世界が違うって! だってそうでしょう!? 僕らはずっと上手くやってたし、楽しくやってきたはずなのに、彼はっ」
「黙れ」
俺の前から移動した樹が、マキの顎を容赦なく掴み上げた。
「昨日言ったことが、全然伝わってなかったみたいだね」
「ひぃぐッ、あぐぅ」
小柄なマキの体は、樹に顎を掴まれたまま宙に浮かんでしまう。綺麗な顔は、痛みと苦しさで無残に歪んでいた。
「今度こそはっきり言ってあげる。お前は穴なの。ただ挿れて出すだけの穴なの、ねえ分かる? それ以下はあっても、それ以上なんてありはしない」
マキがひぃっ、と声を上げ涙を流す。
「名前を覚えたのが悪かった? でも、よく使うモノの名前くらい誰だって覚える――」
―――パンッ
樹の頬を容赦なく引っ叩いた。どうしても、我慢ならなかった。
「それ以上言うな、樹」
「裕太くん……」
樹の手から力が抜け、マキの体が床に滑り落ちる。
「そんなことを聞いて、俺が喜ぶと思ってんのか」
「裕太くん」
もう一度伸ばされた手を再度叩き落すと、俺は樹に背を向けた。
「暫く時間くれ」
樹をその場に残し、無駄に重たいドアを開け逃げるようにして外に出た。
酷く重かった空気を吐き出し、大きく吸い込み直してもう一度吐き出す。喉に鉛が詰め込まれたような気分が、少しだけ楽になってから俺は歩き出した。
ショックだった。まさかあの樹が、たとえ体だけの関係であったにしろ、『ただの穴だ』なんて言うとは思わなかった。別にマキのことを哀れんだ訳ではない。ただ、生々しいそういった関係性を、樹の口から聞きたくなかった。
樹の初めてやこれまでの経験が、自分以外の誰かと築いてきたものなのだと……ハッキリと見せつけられたような気になってしまったのだ。
「ちょっ! ちょっとまってー!!」
ぼうっと信号待ちで立ち止まっていると、後ろから野太い声が追いかけてきた。
「……ゲン、さん?」
バーのママであるゲンは、その厳つい肩を大きく上下させ、涙と鼻水を流しながら俺にしがみつく。
「えっ、なに……」
「お願いっ、いっくんを止めてぇぇええぇ」
言われるまま、ゲンと走り戻ったバーの中は凄惨だった。
カウンターの椅子は全てなぎ倒され、そこら中にグラスやガラス瓶が割れて転がっている。その中央に男がひとり、誰かを掴み上げて立っている。壁際には逃げそびれたであろう客達が、顔面を蒼白にして固まっていた。
店の中に、鈍い音が一発響く。その音に、俺の後ろのゲンがまた小さく悲鳴をあげた。
「やめろっ!」
―――ゴッ!
また一発、響く。
「樹、やめろ!」
もう一度振り上げられた腕を、俺は掴んだ。
「いつき」
「裕太くん……」
「もうやめろ、死んじまう」
樹に殴られていた男は、鼻が折れたのか顔面が血だらけで意識が朦朧としている。服装からして、どうやらそれはマキらしかった。
「こんな奴、死んでもいいじゃない」
「樹」
「俺たちの仲を壊したんだ、死んで償ってもらわないと」
「樹、もういいから」
「でも、裕太くんは……」
「悪かった、俺が悪かったから。お前をひとり置いてったりして、ごめん。ちゃんと話をするから。俺たちの仲は、壊れたりしてないから」
ぎゅっと樹を抱きしめると、漸く樹はその腕から力を抜きマキを解放した。床に倒れたマキは、ピクリとも動かなかった。
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