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第22話

 「ヒロキさんの匂いが、すごいする……」黒田は田淵が送り出した日の格好のまま、目を覆って囈言(うわごと)をぼやく。    田淵が帰宅し誰もいないリビングから黒田の部屋を覗いた時の出来事であった。間も置かず、田淵の匂いに本能的に察知したまではいいが、疲れに抗えなかったらしい。    忍び足がここ数日で得意になった田淵は、そろ、と彼の部屋に入り込んで黒田の髪をかきあげる。目を覆う腕はそのままに、髪だけを触り続ける。  すると、ゆっくり黒田自ら腕を放して、田淵の腰に回す。慣れた手つきだったが、それよりも腕の下に隠されていた黒田の顔を見て絶句した。  やつれた顔に、目元のクマ。たった一日の無断外泊で、ここまで憔悴させてしまったのだ。それも、田淵が全面的に悪い。   「黒田君……大丈夫だよ。何となく、黒田君のこと分かった気がするんだ」  触る髪から目元のクマをなぞる。  一段と弱々しい彼に、そっと抱擁をする。少し汗臭くて、人間の匂いが彼からした。 (昨日、お風呂に入らなかったんだろうな)  田淵の腕の中にいる人間の底をようやく見えた気分になり、さらに抱きしめる力を強める。  田淵が家を出る少し前。  自宅にカメラが隠されている心づもりで、必要以上にPCを触らないようにしていた。    だが、距離をとる、ということは此処から一人で外に出るということ。物件を探したはいいものの、下見や契約まで面倒なことだらけである。以前、必死で意づらさを堪えながらマンションの賃貸契約まで漕ぎ着けたことがあるだけに、今回のミッションの難題さは痛感している。  ここで出突っ張りをしていれば、黒田の思惑通り、この家から出られない。  だが、ここは田淵は自分の殻を破る、という意味でも黒田を裏切られなければならなかった。  黒田がいつものように朝、学校へ行った。最近では外から施錠することもない。それは、田淵自らが鍵をかけるからに他ならない。  「よし……」黒田が出て数分もしないうちに、荷物をまとめずに田淵も玄関ドアを開けた。 「あれ……前より開放感を感じる……」  鍵を外から閉める作業も新鮮だ。中は無人だ。有人であると信じて疑わない部屋に無人だった時の気持ちはどのようなものだろう。——言わずもがな、である。    エントランスから少し離れた駐車場に、待たせているタクシーに乗り込む。「—— まで、お願いします」。  そこから1時間。タクシーを走らせ着いた一軒家の表札前。出ていく前と何も変わらない。手入れが行き届いた芝生の庭だが、プランターも花壇にも何も植えていないところも、変わっていない。  これが田淵の「実家」である。  母親に居場所を伝えることなく家を出た。それから数年もの間、一度も帰っていない田淵が、インターホンを押すには多大な勇気が入った。   「はーい」  「——ってヒロキじゃない!!」義母は余所行きから身内のトーンに切り替えて歓迎する。   「あ、た、ただい、ま……?」 「そんな固くならないでいいのよ!! さぁ上がって! お父さんには連絡入れておくから」 (僕一応、蒸発するつもりで、あの時お金渡したんだけどな)  連絡が取れなくなったこと自体気づいていないのか、全く気にしてる風ではない。だが、それが義母である。いつでもハツラツとしているが、実際は底が読めない。  リビングに招かれソファに腰掛ける。実家だというのに、客人の面持ちになる。もはや、この家の人間ではないことを自分から受け入れたかのようであった。    開口一番はやはり母だ。「どうしたの、急に帰ってきたりなんかして」。 「さしずめ、あの時のお金返して、とか?」  眼光鋭く田淵を睨めつけてくる義母に、養育費を請求された時の恐怖を思い出す。  だが、その鋭利な視線はもう、見たことがあるし、黒田の方が何倍も怖い。 「っ違うよ。現状を伝えに来たんだ。それが終われば大人しく帰る」 (正直、家を出てすぐが実家なんて僕もよく分からない。だけど、今の僕なら全部をリセットする勇気があるような、ないような……)  「……あら、そう? 随分とハッキリ言うようになったわね。社会に揉まれて少しは大人になったということかしら?」義母の鋭利な視線は、すぐに影を潜める。 「毎日充実してるよ」 (社会に揉まれてなんかないけど) 「そうみたいね。肌ツヤもいいし、ちゃんとご飯食べれているようで何よりだわ」 「うん。今——一緒に住んでいる人がいて、その人のおかげで毎日楽しい」  義母は目を丸くする。「ヒロキが他人と同居?」。  義母にでさえ「お義母さん」と呼ぶまでに数年かかり、それが定着することはない筋金入りの人見知りだ。そんな田淵に他人と同居など、脅迫されでもしない限りは不可能だと考えているのが見え見えだった。 「僕もびっくりしてるよ」 「もしかして、彼女とかできてて、結婚……を考えているのかしら?」 「あ、いや、そこまでじゃないけど……お互いに大事だなとは……」 「あらあら、それで? ヒロキがそんなに心を許す相手はどんな人なの?」 「——黒田君っていう男性なんだけど」  「黒田?!」目の色を変えた義母はぼそりと呟く。    「よりによって黒田……」この声は田淵には届かなかった。

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