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第25話――黒田裕子――

 ヒロキが余所行きの顔で帰ってきて、余所行きの顔のまま、一泊して帰って行った。  「お邪魔しました」という他人行儀な言葉も、今は褒め言葉となって裕子の身を包む。 「今度は親孝行代わりに、また百万でも持ってきなさい。どうせ稼いでんでしょ?」 「ふふ、はい! 黒田君を連れて来ますね」  穏やかな返しに刺が見える。 「裕子、またヒロキに意地悪言っただろう」  ヒロキの背が小さくなっていくまで見送り続ける裕子に、旦那が玄関から顔を出した。 「……今度はちゃんと反抗してくれたわ。しかも私が苦手ですって」 「——すごい遅い反抗期だな」 「ええ……全く、こんなに子育てが難しいだなんて、聞いてないわ」  「あの子もうすぐ三十路よ?!」肩を抱く旦那に振り向いて、胸に埋まる。以前は身を預ける選択肢があることすら知らなかった。  存外、人に身を委ねると、広い胸が待ってくれているらしい。 「ぐしゃぐしゃなお前こそ、もうすぐ五十路だろう?」 「……まぁ失礼ね。これでも御近所さんから美魔女ね、なんて噂されてるんだから」 「そうだな。俺の嫁さんは年齢不詳の綺麗な女だったな」 「……」 「……そう言えば、タイミング良いのか悪いのか、今日——」  裕子は朝焼けの空を仰いでいう。「七回忌よ」。  互いにそれ以上の言葉を発することなく、旦那は裕子を促し家の仏壇前に正座する。  それから二人は沈黙したまま合掌する。 「お久しぶりです。——俺の嫁さんは今年もお転婆に俺の息子をイビリ倒してましたよ。おかげで、臆病に育った俺の息子は三十路前にしてようやく、嫁さんのイビリに嫌味を返してました。きっとそちらの息子さんも大変曲解して育ったことだろうと思いますが、きっと、俺の息子がなんとかしてくれます。だから、安心してくださいね」 「……」 「嫁さんのせいだ、と今の旦那である俺からは今でも言いたくありませんが……どう考えても、俺と裕子のせいで貴方を追い詰めてしまった……。だからせめて、贖いきれない業を抱えていくとここに誓います」  「申し訳ありませんでした」と旦那が頭を垂れると、裕子も続いて謝罪の旨を溢して頭を下げた。  三回忌だろうが、七回忌だろうが、毎年行う懺悔は欠かさない。  墓に行く事さえ不謹慎な存在だろうから、田淵家の仏壇で元旦那の写真を棚から取り出して、線香を焚く。 (きっと、飛露喜は私に訃報さえ知らせたくなかったのかもしれない。だから、場を収めるようなことばかりをつらつらと出てきた……。私は直接憎んでもくれない)  好きの反対は無関心だとよくいうけれど、憎悪の反対も無関心だろう。  何かしらの感情を向けてさえくれるなら、謝罪の一つもできて、贖罪ができただろう。裕子は飛露喜と再会した日から、旦那の死と、飛露喜に対する罪悪感に苛まれ続けている。それから逃れたくて、飛露喜には早く何かしらのアクションを取りたかった。  だが、そうさせてもらえなかった。憎悪の念すらも、裕子の刺激となることを既に知っていたかのように。  本来なら、前途明るい高校生に、そのような思考へ陥らせてはいけなかった。 「飛露喜が何考えてるのかは私もさっぱり読めなかったけれど、あの子だけは巻き込まないように貴方も見守ってくれないかしら……図々しいのも、烏滸がましいのも承知の上よ。でも、矛先は私一人で良いのよ。貴方もそう思うでしょう? 全ての発端は、この私なんだから——」 「裕子。もういい、このくらいにしておけ」 「でも……っ。あの子は私のせいで、飛露喜の暴走に巻き込まれる——」 「裕子。俺らの子だって、飛露喜君より年上だ。大丈夫、反抗する術をついさっき身につけて帰って行ったんだろう? だったら、信じてやれ。裕子は神頼みするんじゃなくて、とにかく贖罪心を忘れないことだけ。それだけ持っていればいい」  「そして後は、俺に寄りかかればいい」そういう旦那は、仏壇から視線を逸さずに裕子の肩を抱いた。   「俺の息子は、俺と似ている」  裕子は自分に降りかかるかも知れない飛露喜の怨恨の類よりも、ヒロキや旦那が見せてくれた家族愛が酷く痛い。  ——酷く痛いのに、手放せないのがまた難儀だ。  旦那が裕子の肩を抱いたまま、「ところで、ヒロキが渡してきた現金。あれ、いつ返そうか?」と1千万の件を話し出す。   「貴方名義で、ヒロキの口座に少しずつ振り込んでおいたから……去年払い終わったわ。きっとお父さんからの要らない仕送り程度に思ってるわ」  裕子は旦那に顔を向け、目尻の皺を作りしたり顔して見せる。 「——っふ、全く。天の邪鬼なのはもしかしたら、いや、もしかしなくても、裕子の血を色濃く受け継いでいるからだろうな」 「何よ、私はこれでも丸くなりました!」 「ああ、そうだな。だから、今度はヒロキが飛露喜君を丸くする番だ」  旦那は「もし、ヒロキが飛露喜君に巻き込まれたとしても、俺が全力で守るからそんな心配する必要はない」と最後に付け足し、正座から立ち上がり、奥へと消えた。

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