「……泣きたいのは俺の方だよ。……そんなに俺から離れたいの？」 　田淵の声がようやく届いた黒田は、震える声でかぼそくいう。 　「ねぇ……ここまで拒否されてるのに、離してやれない俺って、優しくないでしょ？　出会った時に、ヒロキさんから言ってくれたの未だに覚えてるんだけどさ。俺がどれだけ自分本位か今なら、分かるよね」という黒田から大粒の涙を溢し、田淵の顔を濡らす。雨が顔に降ってくるより、目に染みる。 「今だってね、本当は手を離して、話し合って、どうにか家にいてもらうよう説得するのが正しいんだって分かってる……けど、無理なんだよ。本当に無理」 　田淵は黒田の底を初めて見せてもらったような気がした。「好きだよぉ……」。 　だみ声で訴える黒田で訴える黒田。無論、田淵も他人の底を見たことはなく、キャパオーバーはお互い様である。 　黒田の涙に、つられるように田淵も同じような大きさの涙を目の端から溢した。 「黒田君……聞いてよ。僕、初めて好きって言ってもらえたんだよ」 　田淵は染みる目から流れる涙を拭わず、一生懸命に黒田へ言葉を投げ続ける。「好きな人から好きって言ってもらえてさぁ、僕は僕なりに覚悟を持って此処へ戻ってきたのに、そんな覚悟がどうでもよくなっちゃったよ」。 「お願いだから、戻ってきて……」 「——ヒロキさん」 　尚も焦点が合わない黒田。切なく田淵の腕を握りしめる。「お願い、どこにも行かないで。此処にいて」。 「——飛露喜君！！」 　 　田淵の何度目かの全力投球でようやく、こちらに気づいたようだ。このような時だけは、彼は年下の装いになるらしい。 　「ヒロキさん」ゴールデンレトリバーがこちらを見る。 「今——なんて」 「やっと……こっち見た。飛露喜君」 「ヒロキさん……」 　鼻頭が重なる距離で「泣いてる」と田淵の涙を親指で拭う。 「気付くの遅いよぉ……怖かった！！」 　拭った側から滝のように流れる涙に、黒田が大きな掌でそれを堰き止めようとする。安心して、さらに勢いを増していることに気づかずに。 「ご、ごめん。ごめんね、ヒロキさん」 　田淵ダムの決壊は免れず、放流していく。 「……これも計画の一つ、なのかな……。こんなに優しくして、何が狙いだったの？」 「え、狙いなんてヒロキさん以外何もない」 　即答する黒田に、いつもあった安寧な拠り所として再建築するのが感覚で分かった。握られる手の力が緩む。 「ふふ、やっぱり黒田君は優しい」 「どうして？」 「僕が疑ってても、犯すようなことはしなかったなって」 　 　「今だって、力、緩めてくれてるじゃないか。僕は、優しい飛露喜君をたくさん知ってるよ」ついに拘束が解かれた腕で、黒田を目一杯抱きしめた。 「僕だって、お義母さんを陥れるための駒でしかない、なんて言われたら優しいとか口が裂けても言えないけど……。僕を好きでいてくれるのは本当みたいだし……えっと、その」 　田淵は意を決して、口を開いた。「僕だって……黒田君の行く学校やバイト先の生徒さんに負けないくらい大好き！　——です」。 「それに、帰る家は、残念ながら此処しかない……よ。黒田君が上手いこと外堀を埋めてくれたおかげで、すぐに帰れる家なんて実家くらいだよ」 　「……気づいたの」黒田はもう、表情に影を落とさない。 「逃げるなって言われても、逃げるとこない……のに、これ以上疑うならどこに逃げるが正解か教えてよ」 「……正解なんてそんなの」 「折半だってしてるのに、急に出ていくような無責任なことを僕にさせるわけないよね？　——黒田君は優しいんだから」 　未だ流れる水は、もはや黒田の手には負えない。それを互いに認知したのか、田淵の頬を包んでいた黒田の手が離れていく。 「ごめん——もう一回、俺の名前を呼んで」 　 　そこでようやく、黒田は田淵以上の力できつく抱きしめ返した。