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第62話
朝起きると、昨夜メモ紙にしたためた文は消えていて、代わりに珈琲が置いてあった。
それだけで、互いの愛情を確かめ合えることに、黒田と自身の成長を感じる。
黒田から贈られた珈琲が、今やお気に入りでインスタントのものは飲めなくなってしまった。
舌が肥えるということはこういうことなのだ、と直に感じながら、珈琲をすする。
黒田は休日であっても平日と同じように朝から夜遅くまで家を留守にする。すれ違ってばかりの2人を繋ぐ珈琲とメモ紙は、貴重なものである。
とくに、直筆であることにこだわりを持つ田淵には、書道経験から文字で気持ちを伝えることができるのだと確固たる自信を持っていた。
「でも、最近は僕自身色々落ち着いてきて、文字が安定してるんだよな・・・・・・これじゃ、いつも穏やかで面白くない」リビングの椅子に座って一服する。
32歳になった田淵は、性格的にさらに穏やかに、落ち着きを手に入れていった。それこそ、黒田と出会った当初のような、コミュニケーション能力の低さはもうない。
貯蓄は慰謝料も入って申し分ない額はあるのだが、個人的にコミュニケーション力が足りないことに劣等感を抱いていた。
しかし、黒田に吐露してしまうには躊躇われる。
育った環境が劣悪だと、人を信用して野放しにすることに抵抗感を示す。黒田も例に違わず、自分の大事なものは自分の手元に、常に置きたがった。
「そんな頃もあったな」
まだ熱い珈琲を口に含んで、熱いまま喉を通っていく。
じんわりと胃の中で温まると、黒田が必死に田淵の意見を聞き入れようとしていた時を思い出した。
黒田にとっては、最高難易度の偉業を為し得たのだ。
――「人を信用する」とはこれほど人を苦しませるのかと、田淵も胸を締め付けられた記憶がある。
「好意」があるから「信用する」は、彼にとってイコールではないらしいのだ。
それを結びつけた黒田は、それだけで人間力の底上げに成功している。
一方で、田淵自身も、赤の他人を相手に講師をしている身だ。話術も、対応力も、社会も知ることが出来た。
今の自分達なら、上手くいく道しか見えない。
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