93 / 104
第92話
離された手からすぅ、と冷やかな風が通った気がした。
「・・・・・・」
(そんなこと、言わないでよ――)
無機質な天井から視線を移して身体を起こそうと試みる。しかし、鉛のような身体は言うことを聞いてくれない。
黒田はその様子を見て、一言断りを入れてから、背中を支え身を起こしてやる。
(ありがとう)
「・・・・・・」
「ん? ヒロキさん?」
「・・・・・・!!」
「もしかして・・・・・・」
慌てた田淵は辺りを見回して、紙とペンを手に乱雑に筆談を始めた。
ナースコールを押そうとベッド付近を物色する黒田を見て、そっと、尻の下に隠した。
筆談であっても、会話できる、そう大差ない。黒田にはこれ以上の荷物は背負わせられなかった。
「心因性だろうけど、誰とも話さなかったからだと思うんだ。それにしても、以前の僕なら、それが当たり前だったんだけどなぁ」書き殴るようにして書いた文字はバランスも趣もないが、田淵には早く黒田に伝えたかった。
「ありがとうね、僕をここまで成長させてくれて」
「っそれを壊したの、俺です・・・・・・」
田淵は喉から乾いたがすがすした笑いを溢す。
「よく考えたら、僕もわがまま言えずに溜め込んだから、黒田君に似たディアゴに浮ついちゃったんだと思うと、お互い様な気がするよ」
今度はできるだけ読みやすい字で書いてみる。
隣に座る黒田がなぜいるのかは、もう、聞かなかった。
「だからさ、大人の恋を止やめて、普通の恋を始めませんか?」
「ヒロキさんの別れめいた置き手紙は早々と破り捨てておいたから、俺はいつでも受け入れられるよ」
「俺から離れないで居てほしいけど、命がここに留まってくれるのなら・・・・・・」久しい人と久しい柔らかな頬を触れ、唇を充てがい啄むキスをした。
「僕から言い出した起業がここまで忙しくなるなんて予想をとっくの前に越してて、寂しいが言えなかった・・・・・」
「やっぱり・・・・・・」
ゆっくりと田淵を抱きしめて「ラムレーズンの入ったチョコが大好物なんだって言った日、多分あれで酔っちゃったのか、そんなこと言ってたよ。酔っ払いの戯言だと思って、スルーした俺にも非があるよ。もっと早期解決ができたかもしれないのに、拗らせちゃったよ。本当は、俺ら相思相愛なのにね」黒田はいった。
いつになく柔和な笑みを見せてくれるので、ストレスを身体に感じることなく、その日の面会時間まで和やかに過ごした。
心因性の失声症であることも面会後のナースコールで発覚する。だが、田淵の予想通りで、とくに心的不安を煽ることはなかった。
逆に、今なら心の落ち着きもある。
「・・・・・・ぁ、い、ぅ、ぇえ、ぉ」
声が出た。
「――っく、ろ、だ、く、ん」
二回目は克明に。
「黒田君、大好き・・・・・・」
三度目は流暢に。
ともだちにシェアしよう!