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第93話

 失声症と診断されて、わずか数十分で克服した田淵は、腕に繋がれた点滴の袋を見つめる。聞けば、眠っていた時間は病院に着いてからも半日は経っていたらしい。  夕飯に出された食事は、もちろん重湯。スープのように飲んでしまえばそれきりだ。  田淵はスプーンを手に取り、重湯をすくう。それを口に運んで、飲み込む。数回繰り返したところで、胃袋が拒否をしてスプーンを置いた。  胃がムカついている。ぐつぐつと煮えくり返るようなむかつきを訴えた後、田淵は少量の重湯を全て手元にリバースした。  重湯すら胃にとっては刺激が強かったらしい。主治医から、点滴を続行しながら重湯をさらに湯で割り、元に戻してくことを告げられる。    翌日、他県に在住する黒田は、夕方から来てくれた。それも面会終了時間まで居てくれたのだ。「完全食まで道のりが長そうだね」と食べさせながらいう黒田に、安心を思い出す。  面会時間が過ぎると、瞬く間に田淵の表情に陰りが見える。自覚がないので看護師に言われてようやく、心身ともに黒田の重要性に気付かされた。  職場を辞めさせられようと、それは黒田の手元に縛り付けようとした結果だ。    つまりは、黒田から離れなくていい。それを望まれている。  分かっているようで分かっていなかったその真実に、胸が熱くなる。   「一人暮らし失敗して、入院してるの情けないな。早く体調戻して、それから――」  ――黒田宅に戻れる?  ふと降りてきた疑問は、田淵を混乱の渦に巻き込んでいった。  振り回しすぎたことがネックで、果たして戻って良いものだろうか。  だが、黒田がいなければ自分は惰性から入退院を繰り返すことは、火を見るより明らかだった。  結局、黒田がいたおかげで、苦手意識を見つめ克服しようと踏ん張った。その甲斐あって、黒田の怒涛の多忙さに目を背けていられた。  世の社会人は忙しさがあることで、ある程度苦悩に蓋をして生き長らえているのではないかとさえ思えてくる。  「忙しいから」を理由にできるのは、働いてこそでる理由だ。

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