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第29話

晴さんの言っていた«責任»という言葉が深く頭に残り、何をされるんだろうと不安と共にどきどきとまだ見ぬ悦楽に期待が募る。 しかし、そんな俺とは裏腹に、晴さんは家に着くとご機嫌でいま買ってきたばかりの野菜の皮を手慣れた手つきでむきだした。 「今日は買い物に時間掛かったから、簡単に野菜炒めでいい?」 そう問いかけられ、こく、と頷くとにっこりと笑いかけられ少し頬が熱くなる。 帰ってからすぐになにかされるのかと思っていた俺は拍子抜けし、少し残念に思ったけれど、それを自分から伝えるのはやはり恥ずかしく、何も言わないまま晴さんの隣に立って手伝い始めた。 しかしそれは直ぐに終わりを告げた。 晴さんが手を出してきたのでは無い。 俺が料理出来なかったのだ。 野菜の皮を剥くために与えられたのは、俺の味方であるピーラーくんではなく、お高そうな包丁だった。 包丁で皮むきなどしたことないけれど、まぁやってみれば何とかなるだろう、と包丁と人参を握りしめ気合を入れる。 スっと包丁を当て、力を軽く入れるとするりと皮が向けていく。俺もやれば出来るじゃん、と機嫌を良くしたそのときだった。 ぐ、と途中で引っかかるような手応えを感じ、 「人参め、無駄な抵抗はやめろ」 などとふざけたことを考えつつ力を込めた。 すると、包丁は思ったよりかなり切れやすかったらしく、人参から勢いよく飛び出してきたまま、皮を剥くために人参を持っていた左手の親指の付け根をぱっくりと切りつけた。 やば、と思った時にはもう遅く、ずきずきと手のひらが痛み出して耐えられなくなり、カランという音を立てて包丁を落としてしまう。 包丁はシンクの中に入った為、もう誰も傷つけることは無かったが、冷蔵庫の中身を覗いて付け合わせを考えていた晴さんを大いに驚かせてしまったらしい。 「優!?」 「っ痛…っ、ご、ごめん晴さん、包丁落としちゃって、」 顔を顰めながら高そうな包丁を落としてしまったことを謝罪する。 すると「そんなのは気にしなくていい!」と大きな声で言われ、ビクッと肩を揺らしてしまう。 しかしそんな俺を気にする事なく、左手を掴むと水道の水を流して俺の傷口を洗い始めた。 冷たい水が傷口に流れ込んできて、ズキズキとした痛みを増長させていく。思わず、「痛い…っ」と声を出してしまったけれど、晴さんはやっぱり気にすることなく無言で血を流し続ける。 しばらくすると、俺の手を掴んだまま高く腕を掲げ、そのままリビングへと歩きだし、途中で救急箱を掴みソファに俺を座らせた。 無言、無表情でテキパキと手当をしていく晴さんが怖くて、申し訳なくて、「ごめんなさい…っ」と呟くと同時にじわじわと視界が滲んでくる。 晴さんは、涙を浮かべる俺をぎょっとしたようにしばらく見つめていたが、はぁ、と溜息を吐き出して自身の前髪をくしゃりと握りつぶした。

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