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、
信じられない、と思った。
信じたくない、と思った。
けれど、父の表情はあまりにも雄弁で。
思わず唇を噛み締めた。
そのまま身体を翻して父の書斎から出る。
扉の閉まる音がやけに響いて聞こえた。
もう俺の中に激昂はなかった。
父にぶつけた思いが大きな赤い炎だとしたら、いま俺の中にあるのは青い炎だった。
頭の中はやけに冷えていた。
コンコン、とノックをしてから扉を開ける。
「母さん」
何処かに電話を掛けていた様だったが、俺の顔を見た瞬間ふわりと笑みを浮かべて携帯をしまった。
「晴、突然どうしたの?」
ぞく、と背筋が凍るような心地がした。
扉をノックする前、ちらりと隙間から覗いた顔はとてもじゃないが人には見せられないような表情だった。親指の爪を噛み、見てわかるほどイライラしたような雰囲気だった。
なのにどうだ、俺が入った瞬間、その直前までの感情を見事にしまい込んで笑いかけてみせた。
俺は初めて母が怖いと思った。
「何処に掛けてたの?」
じり、と近づくとぱちくりと目を瞬かせて、ふふっと笑みを零した。
「私のお友達よ。それよりどうしたの、突然訪ねてくるなんて」
表情を崩すかと思っていたが、少しもそんなことはなく、いつまでも子供ね、とでもいうかのような表情だった。
「…毎日璃々子が世話になってるみたいだから、お礼にきたんだ」
「あら、知ってたの?晴のお嫁さんなんだから仲良くしないとね」
「…仲良く、ねぇ」
「毎日お喋りしてるのよ。いつも時間を忘れて話し込んじゃうの」
思い出したかのようにふふ、と笑みを浮かべる。これが全て演技だなんて、誰が信じられるだろうか。今までの俺なら、きっと信じてしまっただろう。けれど、俺は見てしまった。
璃々子のやせ細った身体を。手首の傷を。
「…違うだろ」
自分が思っていたよりも低い声が出た。
その声に、ようやく母は笑みを消した。
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