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扉に近づき、すーはーと一度深呼吸する。ぐいっと口角を押し上げて気合を入れた。 ここは会社だ。プライベートとは隔てられている場所。今から俺は恋人に会うんじゃなくて上司であり、この会社のトップと会う。そこを履き違えてはいけない。 よし、とここ数年で作り上げた渾身の営業スマイルを浮かべ、数回扉をノックする。 「どうぞ」 神田取締役の声がして、「失礼致します」と少し大きめの声でいってから扉を開ける。 そこにいたのは、普段のにこにこしている晴さんではなく、紛れもなくここのトップだと言えるような重圧感のある、神田取締役だった。 分かってはいたものの、距離感を感じてしまいすこし寂しいな、と思う。けれど、この感情は今はいらないものだ。 「伊原優です。よろしくお願い致します」 気持ちを割り切るようなつもりで軽く頭を下げ、にこりと微笑む。 そんな俺を一瞥した視線は、ふいと逸らされ、テーブルを挟んだ向かい側を指した。 失礼致します、と呟きながらそっと椅子に腰掛けた。 「伊原さんは、現在どのような仕事を?」 「はい、私はーーー」 そこから質問をされ、それに答えるという形式で いくつか話していく。不満や希望なども聞かれた。 これで最後の質問です、といわれて改めて背筋を伸ばす。 気合を入れて答えていると、途中で昼休憩を告げるチャイムが鳴った。 丁度終わったところだったので、もうそんな時間か、と意識がすこしずれる。 「はい、ありがとう。今聞いた話は参考にさせてもらいます。今後ともよろしく」 そういわれ、にこりと笑みを浮かべたまま頷く。 「ありがとうございました。」 そういって席を立ち、扉を開けようとした時。 「優」 その言葉に反射的に振り向くと、先ほどまでとはまるで顔つきが違う表情で晴さんがこちらをみていた。 「よければお昼一緒にどう?」 「神田取締役…よろしいのですか?」 そういった途端、すこしだけ口を曲げた晴さん。 「もう休憩時間だろう?いまは晴さんでいいよ。もちろん、優さえ良ければだけど」 「う、うん…俺は全然、むしろ嬉しいし…」 「じゃあ、いこう。何が食べたい?」 「そばとか、はやく食べれるものがいいかなぁ」 「わかった。車回してくるから裏で待ってて」 そういい、俺の頬を軽く撫でる。こくんと頷くと、いい子とでもいうかのように優しく微笑まれ、どきっとした。

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