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鷹取光輝03

 その日はいよいよ父が帰ってくる日だった。  朝目覚めたときは、むしろいつもより気分がいいくらいだった。  家政婦さんはお休みの日で、昼は、早坂の作ったクソまずいスパゲッティを食べた。そんなものを食べてしまったからいけなかったんだろうか。何だか気持ち悪くてベッドに横になった……瞬間、身体がずん、と沈み込むような感覚がした。起き上がれない。嘘だ。ただ指を動かすだけが、バーベルを持ち上げるみたいに、重い。  ぶわっ、と汗が噴き出した。必死の思いで這いずって、水もなしに薬を飲み込んだ。大丈夫。少しの辛抱だ。すぐにおさまる。どくんどくん、と脈打つ音がよく、聞こえる。身体の中からじわじわ、と、熱いものが流れてくる感覚に震える。大丈夫だ、止まる。堰き止めなければ。どれくらい効果があるか分からないけれど、目を閉じて、雑念をふりはらって、深呼吸する。大丈夫だ。いつもどおり……  それでも、分かってしまう。  気持ちを落ち着かせようとすればするほど、いつもと違うところに敏感に気づいてしまう。沸騰寸前の湯の中に、ぷつ、ぷつ、と浮かび上がってくる気泡。そんな風に、浮かび上がり、膨らみ、弾けていくものが、全身を巡っている。  何気なく時計に目をやり、愕然とする。薬を飲んでからもう三十分以上経っている。それなのに症状はおさまるどころか、ひどくなっていっている。身じろぐと、内股から膝の裏まで、一気につっ、と冷たいものが伝った。一度流れ出てしまうともう、抑えることができなかった。あとからあとから、一度流れたあとが道のようになっていく。 「な、んで……」  泣きたかった。でも不思議と、目から水滴は一滴もこぼれなかった。心は干上がっていた。  何がいい薬がある、だ。何がひとによって症状は違う、だ。もしかしたら自分は最低で最悪のパターンに当たってしまったんじゃないのか。匙を投げられるような体質なんじゃないのか。立ち上がろうと思ったら押さえつけられ、立ち上がろうと思ったら押さえつけられ……そんな未来しか待っていないんじゃないのか。  もう一錠薬を飲む。それじゃ足りない気がして、もう一錠。ちょっと……効いてきた……ような気がして、そうなると完璧に症状を抑え込んでしまいたくて、もう一錠。まだ足りない。もう一錠、もう一……手を伸ばしたとき、瓶が床に落ちた。でも中身がこぼれることはなかった。瓶はカラになっていた。もう……ない。もう頼るものが……何もない。そう思った瞬間、またぶわっと、堰き止めていたものが逆流する感覚があった。  怖い……嫌だ……怖い……怖い……助けて、誰か……助けて、助けて、助けて!  何で自分だけこんな目に遭わなくちゃならないんだ。何……でっ……、何でこんな目に遭うのが自分なんだ。よりによって神様、何で、自分なんかを選んだんだ。嫌だ、そんなの嫌だ、嫌だ、嫌だ! 今からだって、間違っていた、って、訂正してはくれないか。どっかにいるだろう、そんな風に、何だって思いどおりにできる奴が。この苦しみを買い取ってくれるなら貯金全部差し出せる。ガキの貯金じゃ足りないなら、これから働いて稼ぐ分、全部くれてやる。身勝手だと非難されようがかまうもんか、この苦しみを他人に引き取らせる魔法があるとするのなら、躊躇いなく使っていた。人間、皆、どうせ、どいつもこいつも、自分がかわいいイキモノじゃないか。嫌だ。こんな自分、嫌だ。こんな風になるためにうまれてきたんじゃない。父さんはあんなに立派なのに。どうして、どうして……!

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