32 / 133

鷹取光輝03

 しばらくそれが、父と早坂の名前だということが分からなかった。『晃人』『修哉』……どうしてふたりは名前で呼び合っているんだろう。あれじゃあまるで、友だちか……とても親しい間柄みたいじゃないか……親しい、というか……  ……また、ひっくり返されるのか。自分の見ていた世界が。  早坂が父に迫っているのを知ったとき……自分がそんな早坂と『同じ』だと悟ったとき……これ以上の不幸はないと思った。でもまさか、まだ、それ以上の何かがあるというのか……  ドアにそっと、耳を近づける。 「俺は覚悟を決めてる。だからお前も腹をくくってもらわなくちゃ困る。お前が受け止めないで、一体誰が受け止めるんだよ」 「でも……お前の立場を悪くさせてしまう……」 「俺の立場なんてどうでもいい。それにそんなの、じいさんばあさんがくたばりゃ、どうにだってなる」 「こんなことになるなんて……こんなことになるのなら……あのときいっそ……」 「修哉!」  父の鋭い声に、びくんと肩を震わせる早坂。父の声の波動は、ドアを隔てていても伝わってきて、期せずして早坂と同じように肩を震わせてしまう。父がこんなに声を荒げたのを、初めて見た。 「それ以上言ったら許さないからな」 「でも! でもこんなことになるなんて……思ってもみなかっただろ。あのときこんな最悪な想像はしなかったはずだ。あの頃の自分をぶん殴ってやりたい。どうしてあんな楽観的だったんだろう。これ以上の幸せはないって思ったんだろう。俺は何も……何も分かっちゃいなかった。こうなる可能性は予測できたはずなのに……」 「だったらうまなかったのか」 「それは……」 「どうしてひとりで抱え込むんだよ。どうしてごめん、とか……ひとりで勝手に罪悪感抱えてんだよ。俺たちの問題だろ、これは……」 「でも……俺のせいだ。光輝にオメガの血が流れたのは、絶対、俺のせいだ」 「俺の母親はオメガだった。その血かもしれない」 「優しいな、晃人は、相変わらず……。でもその優しさはさ……今は……白々しいよ」  唇を歪めて早坂が笑う。そんな表情も初めて見た。……いや、そんなことはどうでもいい。それよりも……それ、より、も……  オメガの血……  光輝に……  確かにそう、聞こえた。  何のことだ、一体。  心臓がばくばくいっている。喧しすぎる鼓動はまるで、都合の悪いことを聞かなくてすむようにしてくれているみたいだった。むしろ聞くな、と。早くここから立ち去れ、と。でも…… 「あの子、泣いてたよ」 「泣いて……?」 「声も出ないのに、涙だけがぼろぼろって……ずっと、止まらなかった。強い……子だと思っていたけど、そのときの光輝は年相応で……。晃人は、見てないから……。あれを見てしまったらもう、駄目だった。俺は何て……何て罪深いことをしてしまったんだろう、って……」 「罪深いって何だよ。そう思うことが罪深いよ」 「そうかもしれない、でも……」 「それでも俺はあのとき、修哉が光輝をうんでくれて嬉しかった」  神さま……  一体これは、何の冗談ですか。  血の気がサアッと引いた。もし手に何か持っていたなら、ドサッと地面に落としていた。  父は今、何て言った。  うんで、くれて、嬉しい……?  光輝。それが自分のことだと思えなかった。父は一体誰のことを話しているんだろう。今ここにいるのは、本当に父なんだろうか。だって言葉遣いも、表情も、全然違う。こんなの父じゃない、父じゃない、父じゃ……  そのとき父が、こっちを向いた。一瞬のうちに表情が強張ったものになる。しかしすぐにもとの表情に戻って、落ち着いた足取りでこっちに向かってくる。ドアがゆっくり、ひらかれる。 「光輝……」  父にそう呼ばれると、安心する。でもさっきまで「光輝」と言っていたのは、うずくまっているあの男だ。 「身体の具合は、もう大丈夫なのか」  父のそういう、『大人』な態度に少し、いらついた。今一番に言わなくちゃならないことは、そんなことじゃないだろう。でも父の醸し出す空気に押されて、光輝もついつい『大人』な態度を取ってしまう。「もう、平気」 「そうか……」 「一番つらい時期はせいぜい三日だって……教えてくれた。なあ、早坂」  早坂がおそるおそる顔を上げる。

ともだちにシェアしよう!