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鷹取晃人03

「試験を開始してください」の声が、聞こえていなかった。会場中に響き渡る鉛筆の音で、ハッと我に返った。分からない問題に一度つまずくと尾を引いてしまうから、ひとまず飛ばしてマークシートを埋める。戻って考えたら時間ぎりぎりのところで何とか答えを導き出すことができた。  試験は相対評価だから結果が出てみないと分からないけれど、英語はたぶん、今までで一番手応えがあったと思う。  できたとかできなかったとか、ざわついている受験生たちをくるりと見回して、無意識のうちに修哉を探してしまっていた。……馬鹿な。同じ受験会場かどうかも分からないのに。  あれから修哉の症状はおさまったんだろうか。それならいいけど……。いや、自分に修哉の心配をする権利なんてないだろ。助けて、と、差し出された手をふりはらったくせに、大丈夫だったらいいな、なんて身勝手にもほどがある。他の誰が修哉を助けられるっていうんだ。他の誰……まさか……まさか、他のアルファに……  感情が整理できないまま、二科目目が始まる。手をふりはらったのは自分じゃないか。  嫉妬したくせに。自分が受かりっこない大学に、さらっと受かってしまう修哉の姿を見たくなかったくせに。……違う、そんなこと思っちゃいない。それなのに修哉が他のアルファに抱かれるのが嫌だなんて、何て自分勝手なんだお前は。薬も効かないのに。何もするなってことは、あのまま狂い死ねと言ってるようなもんじゃないか。……いや、実際そうしたんじゃないのか。狂い死んでもよかったんだろ。自分が上に立てない相手ならば、どうなったってよかったんだろ。……違う。違う、違う!  緊張からでなく、ぶるぶると手が震えた。問題が解けるごとに落ち着いてくるはずなのに、動悸はひどくなっていく。  悪い想像ばかりが膨らむ。いっときの感情に任せて、何てことをしてしまったんだろう。たぶん、修哉のことだ、連絡するかどうか相当悩んだに違いない。携帯をあけて連絡先を押す瞬間、修哉はどんな気持ちだったのだろう。そもそも頼ってくれと言ったのは自分じゃないか。どんな醜態をさらしても見捨てない、絶対離れない、傍にいると言ったくせに……  苦手な科目があとに残っていたせいもあって、本当に正しい選択肢をマークできているか、自信が持てない。何を選択しても、間違っているような気がしてくる。そもそもこんな黒丸ひとつに、何の意味があるのか分からない。たとえいい成績を残せたって、希望の大学に入れたって、こんな自分に一体何の価値が。大切なものを守れなかった自分に。  苦手な化学は時間が足らなかった。でも早く終わってほしいと思ってしまった。一刻も早く、修哉のもとへ駆けつけたかった。修哉。こんなところで、ぎりぎりまで最後の二択で悩んで、こっち……いやこっちか、と消しては塗り潰し、消しては塗り潰しを繰り返して、一点稼ぐことに汲々として……一体これは、何の茶番だ。  とりあえず埋めきった解答用紙。でも埋めきれなかったものが、あまりに多く、胸の中に溜まっている。ようやく試験時間が終わって、束の間の解放感。けれど、難しかったとか、あれは引っかけだったとか、そんな皆の会話が遠い。自分はもはや、受験生の資格を失った。ただ、皆と同じフリをしているに過ぎなかった。  早く、早く。  朝、来たときより、心なしか足取りがゆっくりな受験生たちの合間を縫って、試験会場を飛び出す。  電車が来るのが、赤信号ひとつが、焦れったい。  時間が経てば経つほど、最悪な想像ばかりが膨らんでいく。  他の男に抱かれている修哉。呻き苦しんでいる修哉。カッターナイフを腕に宛がっている修哉……  修哉のアパートの階段を駆け上がり……  でもドアノブに手をかけた瞬間、何故か急にブレーキがかかった。鼓動だけが、摩擦に耐えきれず白煙を上げるタイヤのようになっている。  鼓動が静まるまで、どれくらいかかっただろう。チャイムを押す。返事はない。  もしかしたら……病院に行ったのかもしれない。落ち着いて、寝ているのかもしれない。意外と大丈夫だったのかも……  いや、この期に及んで一体何を……  思った瞬間、ドアがあいた。  目と目が合う。中に一歩、踏み込む。ドアがさらにひらかれ……でも晃人の胸に当てられた修哉の手は、押し返すような動きをする。 「駄目だ……晃人、何で来たの」 「何で、って……」 「明日だってあるだろ。何やってんだよ」 「身体は……」 「俺は大丈夫だから……だから、もう帰って」 「だったら何でドアあけんだよ」 「それは……」

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