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鷹取晃人04

 そこからどうやって家に帰ったのか覚えていない。  次の日もその次の日も、ちゃんと大学には行けた。講義を受けた。友だちと、レジュメ貰ってきてとか、学食のうどんが五十円安くなってるとか、そんなどうでもいい会話をした。大学の帰りにCDショップに寄って、好きなアーティストの新譜を買った。そのときも何だか、強制的に進んでしまうベルトコンベアの上に乗せられているみたいだった。目を閉じてこのまま流れていけば、何もなかったことになってしまうんじゃないか。  日が経つごとに切羽詰まった感覚は薄れて……でも、ふ、と、雲が太陽の光を遮った瞬間……傍で自転車が急ブレーキをかけて止まった瞬間……それらがすべて、自分へ向けての警告であるかのような気がしてくる。  手帳をひらき、何の気なしに『あの』日からの日数を数える。一、二、三……十七週……いや、妊娠の週数って、もっと前から……最後の発情期から数えるんだっけ。とすると二十……。堕ろせるのって、何週までだっけ。堕ろそうと思ってる、なんて言ってたけど。一体いつ……  どくどくと鼓動が速くなった。このまま、「堕ろしたんだ」「ああそう」で終わらせてしまっていいんだろうか。堕ろす、ってやっぱりそれなりの負担がかかるんじゃないのか。そんな状態の修哉をひとりにしてしまっていいんだろうか。費用だってかかる。働いているから大丈夫と修哉は言っていたけれど、あの様子だと修哉は誰にも……家族にも話していない。誰も頼ろうとしていない。晃人もまだ、このことは誰にも話していない。自分たちが……自分たちだけが口を噤んでいれば消される命。いいのかそれで。本当にそれでいいのか。  動悸がおさまらない。いても経ってもいられなかった。バイト行くの面倒とか、合コンどうするとか、そんな華やいだ空気のキャンパスにいることが、ひどく場違いなことのように思われた。  そのときになってようやく、気づいた。  間違った。  自分は、いつも、いつも、いつもいつも肝心なところで選択を誤る。あのとき修哉にかけるべき言葉を、また、完璧に間違った。  一体いつになったら自分は学習するのだろう。嫌になる。こんな自分が本当に、嫌で、嫌で、嫌で……  全速力で走る。そんなことをしたって過ぎた時間を巻き戻すことなんてできない。何に必死に追いつこうとしているのかも分からない。手遅れかもしれない。でも少しでも歩調を緩めてしまうと、駄目だ。ものすごい勢いで追いかけてくる過去の自分の愚行に、ぺしゃんこにされそうだった。  メールを送っても、電話をしても返事がなかった。心のどこかで、ああやっぱりなと思っている自分がいる。気づいたときにはすべて手遅れ。望んだものを手に入れられるチャンスはいくらでもあったのに、自分はそれを取り逃がす。失ってから初めて気づく。でも、それでもほんの少しの可能性を信じたかった。絶対無理だとすぐに諦めた受験。でも今回ばかりは諦めたくなかった。結果がもう出ていたとしても、諦めたくなかった。  インターホンを鳴らしたが、返事はない。平日の夕方。当然か、仕事に出ているのかもしれない。別の場所で時間を潰すことも考えたが、そうしている間にすれ違ってしまうような気がした。ドアの前で膝を抱えていると、階段を誰か、上ってくる気配がした。パッと顔を上げると、隣の部屋の住人で、気まずい。自分が変に思われるのはかまわないが、修哉に迷惑はかけたくなかった。  一時間くらい経った頃、また階段を上ってくる足音がした。おそるおそるそちらの方を見ると、今度こそ修哉だった。  たぶん、偶然だと思うけど、修哉の手が下腹部に添えられていることに、何か特別な意味があるのかと疑ってしまう。修哉が何か言おうとしているのが分かった。何か、決定的なことを言われてしまったらもう終わりになってしまう気がして、先に口をひらいた。 「……で、ほしい」  自分でも「えっ」と思ってしまうほど、小さな声しか出なかった。案の定、修哉が首を傾げる。 「うんで、ほしい」

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