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鷹取晃人04
何も決まらないまま、予定日まで一週間を切った頃、病院から連絡があった。修哉が通っている病院じゃない。まったく聞き覚えのない病院。母の危篤の報せだった。
危篤……? え……? 何のことだかまったく理解できなかった。母が入院? いや、そもそも病気だった……? そんなのまったく聞いてない。どうしていつの間にそんなことに……
まるで自分に渡されたテキストだけ落丁だらけでページが抜けていて、でもこれが正しいのだと突っ返されているみたいだった。
病院に着くまで、ずっと心臓がどくどくいっていた。これは不安からか、悲しさからか、それとも単純に、小走りになっていたからか……何のせいなのか分からなかった。
総合病院に入ると、喧騒の中、どこからともなく、ああー……っ、と、子どもの泣き声が聞こえて、どきりとした。ここに修哉がいるはずないのに。
それから先の記憶は、涙に滲んだみたいにぼやけている。
ベッドに横たわった母の顔を見て、ああ……母はこんなだったか……と記憶を辿っているうちに、母は息を引き取ってしまった。悲しむ余裕もなく、逝ってしまった。それでよかったのかもしれなかった。あれ以上の猶予があったらきっと、余計なことを喋ってしまった。だからこれでよかったんだ。
母が乳がんで二年前から闘病していたことを、亡くなってから初めて知った。二年前……その頃自分は……大学に受かるか受からないか、なんて……何てちっぽけなことで悩んでいたんだろう。どうして母との間に距離がある、なんて引いてしまったんだろう。距離があって当たり前だった。だって母は遠い……遠いところへ、行こうとしていたんだから。それなのにどうしてあんな、自分のことばかり喋ってしまったんだろう。自分が一番つらい、みたいに思ってしまったんだろう。どうしていつもいつも、何もかもが遅すぎて……
悲しいか悲しくないかで言えば、悲しかった。でもそれ以上に、整理のできないあれこれが一気に押し寄せてきて、ただただ、呆然としていた。がらくたばかりが打ち上げられた海岸に佇んでいるみたいだった。
そのあとのことも、ほぼ弁護士に任せきりだった。二度と関わり合いたくないと思った弁護士だったのに、結局そんな大人に頼らざるを得なかった。読経を聞いたのは晃人と弁護士のふたり。死を悼んだのは晃人ひとり。それなのに鷹取の援助のおかげで、祭壇はやたら立派だった。飾られていた花を棺に入れる。ひとりでは入れきれないくらいの量に、悔しくて泣けてきた。まさか母の葬儀で、悲しみより勝る悔しさで泣くことになるとは思ってもみなかった。
こんな風に終わるのか。
ひとは、こんな風に終わるのか。
母の人生は一体何だったんだろう。
きっと母だってそんな風に思われたくないに決まってる。幸せだったね、大往生だったね、って、送り出してもらいたいに決まってる。幸せな日々だってあったはずだ。母と暮らしていた十二年間、楽しかった思い出ももちろんある。でもそこから先は……。母に一体何が残ったんだ。立派なひとになって、と、手放した息子は今、こんなていたらくだ。
淡々と進んでいく儀式。棺の蓋を閉められる段になったとき、一瞬……それまでひたひたと心に満ちていたものが、一瞬だけ、逆流した。
「待ってください」
白い手袋を嵌めたスタッフに思わず声をかけていた。流れを滞らせて、と、嫌がられるかと思ったけれど、スタッフは、お気持ちが落ち着いたら仰ってください、と、その声も表情も優しかった。こういったことは日常茶飯事なのかもしれなかった。
でもいざ再び母の顔を見ると、何がしたかったのか、最後に何を伝えたかったのか……不意に分からなくなった。ただ淡々と過ぎていくものに、抗いたかっただけのような気がしてきた。あのまま流れに任せていた方が楽だったと後悔したけれど遅かった。自分から「もう大丈夫です」と言うのには、相当な気力を費やした。
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