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早坂修哉01

 光輝。  その人生が、光り輝くものでありますように。  私が考えた君の名前。出生届に『光』と書こうとしたとき、震えてなかなかうまく書けなかった。  晃人には知らせず、ひとりで届けを出しました。  遺伝子検査に否定されても、それでも確かに晃人の子だという証をひとつ、光という字にこめたかった。子どもの名前を決めること。それを最後のわがままにしようと決めました。  それまで住んできた地を離れ、携帯の番号も変え、私は君とふたり、誰も自分たちのことを知らない地へと引っ越しました。妊娠したことで前の職場は解雇されていたので、新しい仕事を探す必要がありました。ただでさえ不況なのに、子持ちのオメガにまともな仕事などあるはずがなく、アルバイトを掛け持ちして何とかやりくりする生活でした。  働き口と、それだけではなく、君の面倒を見てくれるところを探すのにもずいぶんと苦労しました。何とか保育園に預けることができましたが、預かってもらえるのは夜六時まで。それ以降は延長料金がかかります。熱が出たら、その時点で迎えにいかなくてはなりません。早退を繰り返していると、バイトもクビになりました。  寝かしつけてようやく静かになったと思っても、二、三時間後にはまた同じことの繰り返し。ミルクをやって、おしめを替えて、あやして、寝かしつけて、ミルクをやって……  畳の上でずっと同じ姿勢のまま、二、三時間ぼんやりしていて、君の泣く声でハッと我に返ったこともありました。起きているのか寝ているのかも、よく分からない状態でした。世の母親たちは皆、こんな思いをしているのでしょうか。こんな思いをしているのは、自分だけのような気がしてきます。  こんな思い……  何を馬鹿な、と、罵られてしかるべきでしょう。そんな覚悟もなしに子どもをうんだのか、と。  違うのです。君を愛していないわけじゃない。君に何かあったら心配で心配でたまらないし、失うなんて到底考えられない。それでも、どうしてこんな風になってしまったんだろう、という思いは、いくら洗っても洗っても次の瞬間には心にべったり貼りついていて、ちょっと諦めるともう手の施しようがないくらいに心を曇らせていくのです。  何かひとつ、動作をするのが、だんだん億劫になっていきました。哺乳瓶を洗い終わったあと台所で、ゴミを纏め終えたあと玄関で、ぼんやりと立ち尽くしていることが多くなりました。ピーピーと洗濯機が鳴る音を聞いても、湯が沸騰する音を聞いても、やらなくちゃいけないことは十分分かっているのに、それなのに動き出すことができないのです。君が大声で泣いていても。  どうして赤ん坊は泣くという手段でしか、意思を伝えることができないのか。せめてこの耳をつんざくような泣き声でなければ、もうちょっと心穏やかに育児をすることができるのに……  泣き叫ぶ君を見下ろしながら、身勝手な考えが止まりません。どうして、いつの間にこんな風になってしまったのでしょう。うまれてすぐの頃は、君が泣いていたらすぐに抱きかかえて、あれこれと世話を焼いていたのに。涙の雫が一滴も残らないように、丁寧に顔を拭いてあげていたのに。君がする仕草のひとつひとつが、げっぷでさえも愛おしくてたまらなかったのに。泣き声が徐々に、止めても止めても鳴るアラームのように聞こえてきます。初めの頃は、泣き声はとてもクリアでした。ちょっと泣いただけで、すぐに飛び起きていました。でも次第に、どれだけ激しく泣いていても耳栓越しのように、ぼんやりとしか聞こえなくなりました。  どんどんどん!  いつまでも泣き声がおさまらないと、壁を叩かれるようになりました。ちょっと前まではこんなことはなかったのに。あまりにも長い時間、泣かせ続けてしまっているからでしょうか。それともバレてしまったからでしょうか。オメガの子、だと。 「ねえ、泣きやんで」と、言いながら、自分の方が泣きそうになっていました。壁を叩かれる音に、さらに泣き声が大きくなります。「泣きやんで。泣きやんでよ、お願いだから。ねえ、そんなに泣いてるから、だから怒られちゃうんだよ。光輝が泣くから、だから……」  ミルクは飲ませました。おしめは替えました。何が気に入らなくて泣きやまないのか、まったく分かりませんでした。ただ私を困らせたくて泣いているんじゃないかとすら思いました。一体、何を欲しているのか。  愛情。  という単語が、ぽつん、と胸に落ちました。

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