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つぐみはその絵本が大好きだった。
大筋としては、小さな男の子がどんぐりの木を探して森を探検するという他愛もないものだ。
いろんな動物たちと出会い、別れ、困難を乗り越え、男の子はとうとうどんぐりの木を見つけ出す。
そしてその実を母親の元に持ち帰って、パンケーキを焼いてもらった、という話なのだが、読んでやるたびにつぐみは新鮮な驚きを口にし、瞳を輝かせた。
しかも読み終えると、どんぐりを探しに行くと言って聞かず、近所中を歩き回ったこともあったし、『みぃもどんぐりのパンケーキが食べたい!』と駄々をこねるので仕方なくパンケーキを焼いてやったが、『どんぐりが入ってない!』と泣き出したりと、ほとほと周を困らせたものだった。
思い返すたび、周は内心苦笑いをする。
だが、ひとつだけ、気になることがあった。
絵本に出てくる『母親』のことだ。
つぐみは絵本の中の男の子や動物、植物に関して様々な質問をしてきた。
しかし母親についてだけは、一度も言及することがなかったのだ。
……いや、自身の母親に対しても、だ。
周の元にやってきてからのつぐみが、その名を口にすることは一切なかった。
だが、つぐみの言動は、決して母親を拒絶しているわけではなく、求める気持ちの強さが裏返っているように周には思えた。
……子供のみぃにはそうすることでしか、自分の精神を守ることができなかったのだろう。
周は無意識に深い息を吐く。
……きっと、今も……。
つぐみの心の傷の深さを思うと、周はいつも、やるせなさと自身の不甲斐なさとに、改めて落胆するのだった。
「絵本、お嫌いですか?」
「え……、い、いえ、そういうわけではなく」
有本の声に、周はクリスマスソング溢れる店内に意識を戻した。
「佐和田さんの前職は存じ上げているのですが、今の佐和田さんに生み出せるものがあると、私は思うんです」
手帳を閉じながら、有本は周を真っ直ぐに見て、笑みを浮かべた。
「すぐにお返事いただかなくても構いません。でも、もうすぐ年も明けますし、佐和田さんも何か新しいことをやってみたくなるかもしれませんから」
自身も二歳になる男の子を持つ母親だという。
その笑みには編集者としての自信と、母親の直感のようなものを周は感じた。
絵本を読み聞かせているときのつぐみのワクワクとした幸せそうな顔を思い出す。
ふっと頬が緩んだ。
「……ご提案、ありがとうございます。せっかくのお話ですので、前向きに考えてみようと思います」
周はそう答えて、つぐみとの大切な思い出とともに、コーヒーを口に運んだ。
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